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ロンドン2012


概要・説明

日本のフェンシング競技の歴史

 競技スポーツとしてのフェンシングが日本に伝えられたのは1932年(昭和7年)である。

 フランス留学中にフェンシングを習得した岩倉具清が同年帰国後、同好の士を募ってこの競技の普及を図ったのである。岩倉の呼びかけに応じ大阪YMCAを中心にして数人のグループができ、岩倉の指導を受ける傍ら原書を購入して研究するなど、本格的なフェンシング活動が始まった。やがて東京にも愛好家が増え、1934年、岩倉をリーダーとする日本フェンシングクラブが結成された。これが日本におけるフェンシングクラブの始まりである。

 1936年に開催されたIOC総会で、1940年のオリンピック開催地を東京とする決議がなされた。これを機に同年10月23日、曽我祐邦子爵を会長に大日本アマチュア・フェンシング協会が設立された。現在の社団法人日本フェンシング協会の前身であり、来るべき東京オリンピックに向け普及強化に取り組んだ。日本のフェンシング活動が本格化したのはこの時からである。残念ながらやがて日本も世界各国も第二次世界大戦に突入したため、東京オリンピック開催は返上され、フェンシング協会も解散することとなった。

 世界大戦が終結すると国内のフェンシング活動は素早く復活した。その中心となったのは剣道家達である。進駐した占領軍の指令により剣道、柔道といった日本古来の武術はその活動が禁止され、大学の剣道部員達がそれに代わる剣技としてフェンシングにとびついたのである。1946年8月に日本フェンシング協会が統一団体として復活再建され、翌1947年には関東学生フェンシング連盟が結成された。大学リーグ戦が復活したのは1948年春で、同年10月には戦後1回目となる全日本選手権大会が開催された。

 1951年にはFIEへの復帰加盟が認められた。国際大会へのデビューは1952年、ヘルシンキ(フィンランド)・オリンピック大会への視察員派遣である。1953年のブリュッセル(ベルギー)の世界選手権とドルトムント(ドイツ)の国際学生スポーツ大会(現在のユニバーシアード大会)に初めて選手権を派遣した。オリンピックへの選手団派遣は1960年ローマ(イタリア)大会からとなり、以来北京大会に至るまで毎回選手団を派遣している。

 1964年、オリンピック東京大会で日本は男子フルーレ団体4位入賞を果たした。それから約40年間その時の成績を上回る結果を得られていなかったが、2004年かのアテネオリンピック直後より、協会の中に北京オリンピック強化委員会を立ち上げ、メダル獲得を目指した強化体制を整備して、ウクライナからオレグ・マツェイチュク氏(フルーレ)を招聘し、また500日合宿を敢行した。その結果、北京大会においては、女子フルーレにおいて菅原智恵子が7位に初入賞し、男子フルーレにおいては太田雄貴が2位となって日本フェンシング界初のオリンピック・メダリストとなった。

 その後、さらなる飛躍をもとめて女子フルーレの強化のためイタリアからアンドレア・マグロ氏をコーチに招聘、またエペ・サーブルについてもウクライナからゴルバチュク氏ルカシェンコ氏の若手コーチを招いて強化に努めてきた。

 2010年アジア大会(広州・中国)において女子エペ団体初優勝を果たし、世界選手権大会(フランス)においては、男子フルーレが団体第3位、個人でも太田雄貴が第3位と成果を上げた。

 ロンドン・オリンピックへの選手派遣では男子フルーレ、女子フルーレで団体戦と個人戦3名の出場権を獲得し、更に女子エペ個人戦に1名、女子サーブル個人戦に1名の出場権を獲得した。結果として個人戦では北京よりも1名多い8名が出場することとなった。特に団体戦では、開催地枠を除くと世界で8か国という狭き門を通り抜けて出場権を獲得した実力は評価に値する。 残る課題はオリンピックでのメダル獲得とともに悲願である金メダルの獲得である。

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