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オリンピアンズ・ストーリー

オリンピアンズ・ストーリー

この企画は、日本代表としてオリンピックに参加したオリンピアンに、得意分野のお話をご執筆いただくページです。今回はトリノ冬季オリンピックノルディック複合競技の解説をテレビでされた三ケ田礼一さんのトリノでの思い出、そしてご自身が子どものころに経験したひとつの出会いについて語っていただきました。

- トリノ冬季オリンピック、そして人との出会い -

渋滞も環境保護のため

2月に行われた第20回オリンピック冬季競技大会(2006/トリノ)で、私はノルディック複合の競技解説を務めました。今回は解説者として参加したオリンピックで気づいたことをお伝えしたいと思います。

ノルディック複合競技が行われたプラジェラートは標高の高い山岳地域でした。他にもジャンプ、クロスカントリーが行われましたが、大会期間中は選手団や観戦に行く人たちの車でひどい渋滞でした。これは道路がさほど整備されていなかったからだと思います。大会のために道路を整備する国もあるようですが、トリノの大会では最小限の道路工事しかしなかったという印象でした。

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第20回オリンピック冬季競技大会(2006/トリノ) ノルディック複合競技  写真提供:フォート・キシモト

会場までの道には非常にきついカーブがあり、しかも雪が多くない国だからかもしれませんが、多くの車が雪用タイヤではなくノーマルタイヤで雪道を走っていました。スリップ防止のため、砂をまいていましたが、それも間に合わず、かなりの渋滞になっていました。中には出場選手が渋滞に巻き込まれるケースもありました。試合開始に間に合わなくなると判断すると、車を降りて会場まで徒歩で移動していました。その距離10kmほどで、試合前の選手には負担だったと思います。

おそらく最小限の道路整備しか行なわなかったのは環境に配慮していたからでしょう。無駄にお金をかけず、無理に自然を破壊しなかったことは、環境保全という意味ではよかったのかもしれません。環境への配慮といえば、メディア用の食堂の食器はすべて紙製でした。ゴミももちろん分別して捨てるようになっていました。

聞きよい解説のため工夫したこと

私が競技から離れて10年以上経ちますので、ルールも大幅に変わっています。ですから解説をするにあたっては、いちから勉強し直しました。選手の名前が入ったリストに目を通し、試合会場に毎日行って、過去の戦績と照らし合わせ、『この選手はクロスカントリーが得意だ、あの選手はジャンプが得意だ』と、1人ひとりチェックしました。

毎朝、6時に簡単な朝食を済ませ、6時半にはホテルを出発。練習が始まる前にその日に行われる試合のスタートリストを作り、資料を集めて勉強しながら取材を進めていました。
ルールは私が現役選手だった頃と比べて規制が多くなり、内容も細分化されています。

解説も事前にアナウンサーと打ち合わせをして、どういう方向で進めるかを、簡単ではありますが決めていました。例えば前半のジャンプでは各選手の紹介をもれなくするのではなく、何番か後に出てくる日本人選手に対し、どういうところに気をつけて、試合に臨めばいいかなどを話すようにしました。また飛び出してから着地するまでの間の言葉の割り振りに工夫して、1人の選手の解説がぴったり着地で終わるようにしていました。

魅せる競技になったクロスカントリー

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魅せる競技となったクロスカントリー(トリノ冬季オリンピックより) 写真提供:フォート・キシモト

大会期間中、ノルディック複合と同じ会場で他のスキー競技を見ることもありました。その中でクロスカントリーがいちばん印象に残っています。イタリアではクロスカントリーの人気が高く、特に男子の競技が行われる日はおびただしい数の観客が集まっていました。おそらく何万という単位の人々が応援していたと思います。

私がジャンプの会場からクロスカントリーの会場まで歩いて行った時には、その間5kmの距離を隙間なく観客が埋め尽くしていました。その時は男子のリレー競技が行われており、その応援の光景は日本では考えられないほど白熱したものでした。交通機関がよいとはいえない状況で、あれほど観客が集まるのですから、すごいことです。大人数のギャラリーの中で大声援を受けながらゴールをすれば、その選手はヒーローです。競技をやってきた人間からすると本当にうらやましい話です。

クロスカントリーは魅せる競技になりつつあります。以前は30秒間隔で選手をスタートさせ、そのタイムで勝敗を決める方式がメインでしたが、今はリレー競技やチームスプリントなどは一斉スタートするマススタート方式を採用しています。これならば誰が勝ったか一目瞭然です。

また30kmや50kmの距離競技も大きな楕円形のコースだったのが、最近は環境保全の意味もあり、小さい周回コースになり、選手たちはそこを何度もぐるぐると回るようになりました。観客も選手を何度も見ることができ、応援しがいもあります。スキーは山で行われる競技ですが、魅せる工夫をすれば、こんなにも応援しに来てくれるのだと実感しました。

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夏見円選手(右)と福田修子選手(左) 写真提供:フォート・キシモト

また今回は日本も健闘しました。女子チームスプリントでは夏見円選手と福田修子選手が日本の女子クロスカントリー史上初の8位入賞を果たしました。これは素晴らしい快挙ですから、もう少し評価されてもいいと思います。どうしても日本のメディアはメダル獲得選手ばかり取り上げがちですが、メダルを取らなかったからダメというのではなく、彼女たちのように目標を大きく越えた選手にもスポットを当ててもらえれば、もう少し日本の冬季競技も盛り上がるのではないのでしょうか。

トリノ冬季オリンピックで感じたメダルの重み

トリノ冬季オリンピックでは日本が獲得したメダルは金メダルが1個でしたが、今回はメダルまであと一歩という種目がたくさんありました。いかにオリンピックでメダルを取ることが難しいことなのか、日本の皆さんも実感されたでしょう。帰国後、周りの方から『三ケ田さんが金メダルを取ったのはすごいことだったのですね!メダルを取ることは本当に大変だったのですね』と言われるようになりました。

私が金メダルを獲得した1992年アルベールビル冬季オリンピックでは、ノルディック複合チームはメダル候補としてはノーマークでした。メダルを獲得した後も『そんな競技あったのですか?』という寂しい反応でした。オリンピックでメダルを取ることは本当に難しいのだと思います。金メダルを取れる人は各競技、1人か1組しかいないわけですから。一方でオリンピックはテレビ中継で世界中の人が見ています。その中で自分の実力を発揮し、今までやってきたことを表現できるということは素晴らしいことだと思います。

人との出会いを大切に

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笠谷幸生選手(札幌冬季オリンピック) 写真提供:フォート・キシモト

自分の持つ能力を発揮するには努力も必要ですが、人との出会いにも大きな役割があります。私がオリンピックを意識するようになったのは小学校5年生の時。その時、地元に札幌冬季オリンピックのスキージャンプで金メダルを取った笠谷幸生さんが講演に来られたのです。

その時、笠谷さんから声をかけてもらったことがオリンピック出場という夢のはじまりでした。講演が終わった後には実技指導も行われました。その場にはスキーだけではなく、さまざまなスポーツに携わる選手が集まっていました。しかも年齢も幅広く、社会人、大学生や高校生もいたのですが、その中に紛れていた小学生の私を不憫に思われたのでしょうか。

私を見て、『おい、坊主ずいぶん身が軽いな』と声をかけてくださったのです。笠谷さんにとっては単なる励ましの言葉だったのかもしれませんが、私は褒められたことが嬉しく、『褒められたということはもしかしたら自分も頑張ればオリンピックに出られるかもしれない。頑張ってオリンピックに出てやろう』と思ったのです。

笠谷さんには夢を与えてもらい、魔法をかけていただいたことで頑張ってオリンピックに出られ、最高の夢である金メダルも手にすることができたのです。どんなスポーツや仕事でもそうですが、誰かから認めてもらい、魔法をかけられることによって最大限の力を発揮することができるのだとこれまでの人生を振り返り、私はそう強く感じています。


三ヶ田礼一(みかたれいいち)
三ヶ田礼一(みかたれいいち)
1967年(昭和42年)1月14日岩手県安代町生まれ。青森県東奥義塾高等学校から明治大学へ進学。1989年リクルート入社。1992年アルベールビル冬季オリンピック冬季競技大会(1992/アルベールビル)でノルディック複合団体に出場し、金メダルを獲得。現在、岩手県にあるホテルで営業を担当。