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オリンピックムーブメントと嘉納治五郎

日本で初めて開催された1964年東京オリンピックから遡ること28年、東京は、すでにオリンピック招致を成功させていた。それは後に、「幻の東京オリンピック」と呼ばれる1940年の東京オリンピックである。圧倒的に不利な状況の中、「柔道の父」として知られる嘉納治五郎は世界を駆け回り、オリンピック招致を成功に導く。嘉納はなぜ、オリンピックにこだわったのか。

文:日本オリンピックアカデミー理事/筑波大学教授 真田 久
写真提供:講道館

日本のオリンピック・ムーブメントの始まりと嘉納治五郎

日本がオリンピック・ムーブメントに関わるようになったのは、およそ100年前のことである。それは、嘉納治五郎(1860〜1938年)が、1909年に国際オリンピック委員会(IOC)委員に日本人として初めて就任してからである。

嘉納治五郎というと、柔道を経験している人なら知っている通り、講道館柔道を創始した人物である。講道館柔道とは、日本に昔から存在していた柔術の各流派をまとめ、青少年の教育のためにつくられたものである。

当時の嘉納は、柔道のみならず、東京高等師範学校(現在の筑波大学)の校長も務め、水泳や長距離走、さらにはテニスやサッカーなど各種のスポーツを学生たちに行わせるほど、体育に熱心な教育者であった。さらに、1896年からは中国からの留学生も積極的に受け入れ、彼らにも体育やスポーツ、そして柔道を教えていた。留学生の受け入れは、1909年までに約7000人にも上った。それは、体育は身体を強くするだけではなく、自他ともに道徳的に高めることができ、さらに生涯続けることで、心身ともに若々しく活動しながら、幸福に生きることができる、と嘉納は考えていたからであった。

1902年7月、宏文学院に清国教育視察団を迎えて。

1902年7月、宏文学院に清国教育視察団を迎えて。

この考えは、年齢、性別はもちろん、国境も関係なかった。嘉納は、誰もができる運動として徒歩、長距離走、水泳、そして柔道をあげていた。さらに、柔道や体育活動で得た道徳的な価値が、社会生活でも実践されるべき、と考えていた。

近代オリンピックの創設者で、当時IOC会長であったクーベルタンは、スポーツによる教育改革に熱心な人物、つまり嘉納のような人物を仲間に加えることを求めていた。

1912年ストックホルム大会に日本初参加・入場行進(写真上)と参加賞メダル(写真下)。

1912年ストックホルム大会に日本初参加・入場行進(写真上)と
参加賞メダル(写真下)。

嘉納は、駐日フランス大使ジェラールからオリンピックの理念を聞き、IOC委員への就任を引き受けたが、それは、嘉納の考えとオリンピックの理念とは、何ら矛盾するところがなかったからである。

嘉納は、IOC委員に就任してからオリンピック・ムーブメントに積極的に関わっていった。スウェーデン・オリンピック委員会の求めに応じて、1912年の第5回オリンピック競技大会に日本選手を参加させる準備を行う。オリンピック選手を派遣するための組織として、大日本体育協会(現在の日本体育協会)を創設し、選手の予選会を実施。短距離走の三島弥彦とマラソンの金栗四三の2名を、日本代表選手に選んだ。しかし、東京高等師範学校の生徒であった金栗には、ストックホルムまで渡航する経済的な余裕はなかった。すると嘉納は、東京高等師範学校で金栗の後援会を結成し、募金を呼びかけ、資金を工面したのであった。

こうして日本初代表の選手はストックホルム大会へと参加したのである。これ以降、IOC委員の嘉納は、ほとんどすべてのIOC会議やオリンピック競技大会に出席している。オリンピック競技大会終了後には、各国のIOC委員を訪問し、その国の体育やスポーツ事情を見聞するとともに、柔道を紹介するなど、親交を深めた。

日本体育協会の創立とストックホルム大会予選会開催に関する趣意書(1911年10月7日)。

日本体育協会の創立とストックホルム大会予選会開催に関する趣意書(1911年10月7日)。