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アスリートメッセージ

スケート・スピードスケート 岡崎朋美



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長野冬季大会では女子500mで銅メダルを獲得
写真提供:フォート・キシモト

4年毎のオリンピックを自分の成長を計る大きな目標として戦い続けてきた岡崎。彼女は自分がここまで競技を続けて来られた要因を「テクニックが下手くそだということ自体が、長生きする秘訣だという気がしますね」と、苦笑しながら言う。完成度が高ければそれ以上に望むものがなくなり、「やりきった!」という感覚になってしまうのではないかと。

「最初の頃の私は、自分がスケートにあまり合っていないと思っていたんです。でも社会人になってまでスケートをやることになって。そこで橋本聖子さんと出会ってから何か段々、『自分の可能性はどうなんだろう。どこまでいけるのかな?』って考えられるようになったんです。トコトンまで自分を追い込める人を身近で見ていると、私にもできるんじゃないかって錯覚するんですよね。私の場合は下手くそだったから、追求しよう、追求しようと思っても、本当に少しずつしか変化はしませんでしたけど」

そんな探究心を持ち始めた岡崎にとって幸いしたのは、2度目のオリンピックだった1998年長野冬季大会の直前から、それまでの踵の部分が固定されたノーマルスケートとは違う氷を蹴る瞬間に踵が離れるスラップスケートが登場した事だ。それを使いこなさなければ戦えないという大きな課題は、彼女にとって新たに与えられた玩具のようなものだった。

長野冬季大会では銅メダルを獲得したが、「これを使いこなせばもっと速く滑れる」という魅力が彼女をスケートから離させなかった。なかなか順調にはいかない試行錯誤の連続が、彼女をスケートにつなぎ止めたのだろう。同世代の仲間が引退しても、「私も辞めよう」という思いは浮かばなかった。

「長野の時は26歳だったけど、その当時は25〜26歳で辞める人が多かったし、早ければ20代前半で辞めていましたね。聖子さんでさえスケートを辞めたのは29歳だったと思うし、30歳を過ぎてやっている人はいなかった。でも今は私がやっている事で、30代でもやっている人が何人かいることは嬉しいし、やっていて良かったな、と思いますね」

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6位に入賞したソルトレークシティー冬季大会
写真提供:フォート・キシモト

長く競技を続けることは、常にトップ選手でいることへの精神的な疲労が大きいのではないかと岡崎は言う。どこかで息抜きをしたくなってしまうのではと。

「その点、私はすごくいい時期に椎間板ヘルニアになったと思うんです。2000年の4月に手術をして、周りの人からはどん底に落ち込んだと心配されたけど、当の本人は『休めるからラッキー!』という気楽な感じだったんです」

27〜29歳頃は、トップ選手であろうと体が少しずつ変化する時期だという。それまでと同じ感覚のままで競技を続けていると、自分の感覚と実際の動きとのズレを感じて迷いも出てくる。岡崎はそんな時期に、再びゼロから体を作り直すことができたのだ。それまで彼女は血反吐を吐くような厳しい練習に明け暮れる時間を過ごしていたからこそ、そのアクシデントを「神様が与えてくれた休養だ」と、気軽に捕らえる事ができたのだろう。

トリノ冬季大会で4位に入賞し、3大会連続の入賞を果たした
写真提供:フォート・キシモト

そして腰の調子が万全ではないながらも出場した2002年ソルトレークシティー冬季大会では6位入賞。さらに2005年1月には、37秒73の日本記録樹立と、自分が進化していることを確認できたのだ。若手が成長してきていた2006年トリノ冬季大会でも日本選手最高の4位に食い込み、3大会連続入賞を果たした。

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