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アスリートメッセージ スケート・ショートトラック 藤本貴大



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「寺尾悟さんのようになりたい」という思いが、ショートトラックへの熱心な気持ちを生み出した

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トリノ冬季オリンピックには憧れの寺尾(中央)と出場した
写真提供:アフロスポーツ

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「自分の思い描く成績を残せなかった」トリノ冬季オリンピック。その悔しさをバンクーバーで晴らす
写真提供:アフロスポーツ

漠然とした気持ちであれ、競技を続けていた藤本も高校に進学する頃になると「強くなりたい」と積極的に取り組むようになっていった。

「当時、寺尾悟さんがショートトラック界を引っ張っていたんです。ああいう選手に自分もなりたいな、と憧れたんですね」

寺尾はあらゆる種目でトップに位置するオールラウンダーであり、まぎれもなく日本のエースだった。熊本の一高校生選手である自分とは、大きな距離があった。でも、いつかあのようになりたい、そんな思いがショートトラックへの熱心な気持ちを生み出した。

高校を卒業する時期が近づいた。すると、「うちに来ないか」と誘いの声がかかった。山梨学院大学の川上隆史監督からだった。川上氏は、当時、全日本の監督も務めていた。また、山梨学院大学は日本代表選手も数多く輩出している名門として知られていた。

高校時代の実績からすれば、その勧誘は驚きのほかなかったが、「自分を変えられるチャンス」と進学を決意する。入部してみると、強豪校ならではの体験にあふれていた。 「同級生は僕より速い人ばかりだし、先輩も全日本クラスの方がたくさんいて。不安? それはもう、ありすぎっていうくらいありました」

その一方で、充実した環境に目を見張らされた。
「氷の上での練習時間は熊本のときの2、3倍だったでしょうか。練習も効率のよいもので、やっぱり違うなと思いました」

レベルの高い選手と、質、量ともに豊富な練習。その中で藤本は、急成長を遂げる。国際大会にも、日本代表として出場を果たすようになった。
「自分はほかの選手よりも出発地点が低いところからだったので、必死に上にいる選手を追いかけていましたね」

そして06年2月のトリノ冬季オリンピックに、5000mのリレーメンバーとして出場する。そこには、憧れの存在だった寺尾も名を連ねていた。

迎えた試合は、思わぬ結果に終わった。決勝進出をかけてアメリカ、中国、イタリアと4チームで行なわれた準決勝で、藤本は3番手として走る。ところが、コーナーの出口で2番手につけていたイタリアの選手を抜こうとしたときに接触し、ともに転倒。日本がイタリアを巻き込んだとの判定で、失格となったのだ。

「やはり個人種目ではありませんから、僕のつまらないミスでみんなの成績を落としてしまった、チャンスを逃してしまったという思いで。もう、申し訳ないという気持ちでいっぱいでした」

そんな藤本の滑りに対して、寺尾はこう語っている。
「あそこは僕でも行くところです」 その言葉に、藤本は「救われた」、そう思ったという。気を取り直した藤本の挑戦は続いた。

翌シーズンには、06年11月に行なわれた韓国でのワールドカップ500mでは、初の表彰台となる2位になった。日本男子として、4シーズンぶりの銀メダルでもあった。

「寺尾さんのようにオールラウンダーを目指していたのですが、国内ではともかく、僕が世界で勝負すべき種目は500mなんだ、と確認することができた大会でした」

世界との距離を感じて、その差を少しずつ縮めようとして歩んできた。そして目指してきたのがバンクーバー冬季オリンピックである。そこは個人種目には出られなかった、そしてリレーで転倒を喫してしまったトリノで果たせなかった、自身の納得の行く滑りを見せるための場でもある。

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