コラム/インタビュー

アスリートメッセージ

アスリートメッセージ 陸上競技 朝原宣治

トップアスリートでありながら、
社会と繋がることができた

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4位に入賞した、アテネオリンピック男子4×100mリレー
写真提供:アフロスポーツ

アテネオリンピックでは100mは残念だった(2次予選敗退)けど、やるべきことはやったし、リレーでもいい形で自分の力を出せたから満足はしました。でも2005年のヘルシンキでの世界選手権は、大会前に行ったヨーロッパ遠征でも本番でもドキドキしなくて、心臓はピクリともしませんでしたね。何のためにやってるのかよくわからないという感じで。そんな状態で世界の強豪と戦っても勝負できないのは明らかだと、自分でよく分かっている。そうなるとレースをしても、何ら興奮することがないんです。それがだんだん嫌になり始めていたんです」

年齢も33歳。もう辞め時かと考えていた。だが、そう思った時に頭の中に浮んできたのは、2年後の2007年に大阪で開催される世界選手権だった。最後に地元で友だちに応援してもらい、大勢の日本人観客の声援を浴びて終わるのもいいのではないかと考えた。

35歳になった自分がどう走れるのかわからなかった。だが、2005年のベスト記録10秒29を自分で検証して、シーズンへ向けての練習量や自分のモチベーションの違いを考えれば、何とか10秒1台を出し、世界で戦えるくらいの体には戻せるのではないかと思えた。

競技を続けるためにはモチベーションが最も重要になると考えた朝原は、自分のやる気を再び膨らませるために、2006年は大会から少し距離を置いた。最低限でも10秒5台の力をキープし、2007年日本選手権の参加標準記録10秒40を一度切っておけばいい。その課題も5月の関西実業団選手権でクリア(10秒37)し、気持ちもスッキリさせることができた。

「将来のことを考えて、視野を広げるために大学院へも通ったから、結構忙しくしていましたね。午前中は会社に出て、午後からは体を動かし、夜は大学院と、三足の草鞋でやっていたんです。2007年に向けて競技をやりたいという気持ちも自然に湧いてきました。だから9月くらいから冬季練習の準備を始められたんです」

その時点で良かったのは、自分の現状の力を、掛け値なしで受け入れられたことだったと朝原は言う。「今の力はこのくらいだ。世界選手権で勝負できるまでにするには、何をどう埋めていけばいいのか」と、冷静に考えられた。

「僕たちは技術が身についているから、ある程度の練習をしていれば10秒5くらいでは走れるんです。でも、それに出力が加わらないとスピードを出せないんですね。だからまた本格的にウエイトトレーニングを始めたり。それに、会社や大学院、家庭で当り前の生活をしていると頭の中は現実的になっていました。このままだと100mを戦っていくための脳は上手く働かないと思ったから、家族から離れて2カ月間、タイでトレーニングをしたんです。まずは、出力を出すための練習に耐えられる体を作らないといけないですから」

世界選手権大阪大会、朝原は100mの1次予選と2次予選で10秒1台を連発して準決勝へ進出。結果は第1組最下位だったが、観客の声援を独り占めすることができた。4×100mリレーでも、決勝で5位に終わったが、38秒03のアジア新記録を樹立して温かい祝福を受けた。


世界選手権大阪大会、男子4×100mリレーでアジア新記録を樹立
写真提供:フォート・キシモト

「世界選手権でもあのメンバーだったし、『そろそろメダルを獲れるかな?』というのはあったんです。でも、アジア記録を出しても5位でした。これでメダルが獲れないならもう獲れないだろうな、という気持ちもあって。ある程度のやり尽くした感もあって満足したんです。元々、周りから『もっとやれるのに』と思われていても、自分が『いいな』と思った時に辞めるというのが僕の美学だったんです。だから大阪で喝采を浴びてきれいに終わるのは、僕にとっては理想の辞め方だったんです。ところが、しばらくしたら『本当に辞めてしまっていいのか?』と言う気持ちが出てきたんです。前年からの練習で体力が戻って来ている。それにともなって精神的なレベルも上がっている状態を考えると、『何で今辞めるの?もったいないじゃないか』って」

やっぱり選手だったらオリンピックで終わりたい。その思いが、銅メダル獲得という大輪の華を咲かせることになったのだ。


北京オリンピック男子4×100mリレーで銅メダルを獲得した日本チーム。
(左から、塚原直貴選手、末續慎吾選手、髙平慎士選手、朝原宣治選手)
写真提供:アフロスポーツ

朝原の競技生活をふり返ってみると、彼はいつも自然体だった。恵まれた筋力と体。彼は「無理なことをやろうとしたらどこか体が痛くなるから、それを正そう、痛くないようにしようと常に考えていました」と言う。彼にとって最も自然な走りの追求。それがケガを理由に競技を辞めなかった最大の要因だろう。

「競技を長く続けて得ることができたものというのは、トップアスリートでありながら社会と繋がっていられたということだと思いますね。例え会社員であっても、27とか28歳まで突っ走ってきて突然止めたら、競技のことしかわからなくて『どうしよう、俺』ってなると思うんです。僕はそういう形で終わらなかったことを幸福に思いますね。やっぱり競技力というのは、筋力だけじゃなくて人間力、総合力だと考えているんです。練習のプランニングだったり精神力だったり。そう言うのを全部合わせた今の僕が、10年前の自分とほぼ同じタイムで走っている。最後の方は、『そうやって戦っているんだな』と思ってやっていましたね」

朝原は、「今の知識と感覚を持ったままで10年若返れたら、絶対に決勝へいけるんですよ」と言って笑った。そして「難しいだろうけど、そういうのを直接若い選手に教えられたら」とも。

彼はチームメイトとともに、「オリンピックの4×100mリレーでメダル獲得」という歴史的快挙を果たした。だが、それをその1回だけで終わらせてしまえば、その快挙もいずれは歴史のなかに埋もれてしまうだけになる。そうではない状況を作るためにも、自分たちがやってきたものを次の世代に伝えていく。それがスプリンター・朝原宣治の、次の役割なのだろう。彼はまだ、舞台を代えても走り続けなければいけない。

(2008.12.25掲載)

インタビュー風景
朝原選手からのビデオメッセージ!!
「これからもますます盛り上がっていく
陸上競技をよろしくお願いします!」

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朝原宣治(あさはら のぶはる)/陸上競技 男子短距離

1972年6月21日生まれ。兵庫県出身。大阪ガス株式会社勤務。
兵庫県立夢野台高校から陸上競技を始め、高校3年次には走幅跳でインターハイ優勝を果たす。93年のインターハイ男子100mで10秒19の日本新記録(当時)を樹立し、日本人初の10秒1台をマークした。96年に10秒14、97年に10秒08、01年には10秒02と自己新記録を更新し続けた。アトランタ、シドニー、アテネ、北京と4大会のオリンピックに出場し、北京大会男子4×100mリレーではアンカーを務め見事銅メダルを獲得。日本陸上男子トラック種目初のメダル獲得に大きく貢献した日本陸上界の第一人者。2008年9月に行われたスーパー陸上をもって現役を引退した。
北京オリンピックのプロフィールページ



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