コラム/インタビュー

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アスリートメッセージ 陸上競技 朝原宣治

シドニーオリンピックから
第2の競技人生が始まった

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アトランタオリンピック男子100mに出場
写真提供:フォート・キシモト

高校に入ってから陸上競技を始め、最初は走幅跳を専門種目にしていた朝原が、100mを自分の種目と意識するようになったのは1996年だった。6月の日本選手権で自身の日本記録を3年ぶりに更新する10秒14を出し、4年前は夢に終わったオリンピック出場を初めて果たした年だ。

1996年アトランタオリンピックではいきなり世界へ肉薄した。1次予選と2次予選を2位で通過した朝原は、準決勝1組で10秒16の5位。惜しくも0秒05差で決勝進出を逃したのだ。だが、200m準決勝で全体の9番目の記録で決勝を逃した伊東浩司とともに、日本男子短距離世界挑戦の夢を大きく躍進させてくれる存在になった。

翌1997年7月までは世界への道を突き進み、7月にスイスのローザンヌで行われたスーパー・グランプリで10秒08のアジア新記録をマーク。「1カ月後に迫った世界選手権では決勝進出を狙える!」。朝原も、1995年からドイツへ留学した彼を指導するアルフレッド・ラップコーチも意気込んだ。だがそれが裏目に出てしまい、世界選手権アテネ大会は左脚に不安を抱えて臨むことに。準決勝進出が精一杯だった。4×100mリレーも、準決勝で第1レーンに入る不利を覆す38秒31のアジア新記録で走りながらも、組み合わせに恵まれず7番目の記録ながら決勝を逃すという結果に終わった。

その後、冬季練習で脚の付け根を痛めた朝原は、走りのバランスが崩れてしまった。その影響が積み重なり、1999年には踝(くるぶし)を骨折してしまったのだ。陸上競技人生で初めて経験する苦しい時期だった。

「1998年からの2年間、体力も精神力も消耗しなかったことを、その後僕が長く競技を続けられた要因にあげる人もいますね(笑)。ただあの時期は、骨を折る前の方が精神的にはきつかったですね。ちょっと良くなると『ああでもない、こうでもない』と考え、練習をしてはまた痛くなるというのを繰り返して、モヤモヤしていました。だから骨折してからは逆に開き直れて『これまでのものを全部捨ててやり直そう』と気持ちもスッキリしました」

だが、再び走り始めた時には、筋力も落ち、走る感覚もなくなってしまっているゼロからの出発だった。良かった頃の練習ノートを見直しても、書いてあることがよくわからない状態。速く走れていた自分をイメージできず、どうやって走っていたかもわからなくなっていた。

「シドニーオリンピックはリレーでしか行けなかったけど、あそこが長く競技を続けるキッカケになったというか、第2の競技人生の始まりのような感じはありましたね。元通りというよりは、また新しい僕のスタイルができたらいいな、と思っていました」


「長く競技を続けるキッカケになった」というシドニーオリンピック
写真提供:アフロスポーツ

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これまでの競技人生、そして北京オリンピックを振りかえる

2000年にドイツから完全に撤退していた朝原は、新天地を求めて本拠地をアメリカに移していた。そこで改めて100mの走法を学び、7月には、生涯ベストタイムになった10秒02を出すまでに復活した。だが朝原は、2002年の方が満足いくシーズンだったと言う。10秒05を筆頭に10秒1台を5回、10秒2台を8回も出すほど安定していたのだ。だがその年の大きな大会は10月のアジア大会のみで、世界大会でのファイナル進出の機会はなかった。

「世界のトップスプリンターはみんな9秒台の記録を持っているから、僕にも憧れはありました。今振り返ってみると、『9秒台を出したい』と思っていたのは02年がピークでした。9秒台を出すチャンスは何度かあったと思うんです。でもそれが僕のもとに訪れなかったというのは、そういう巡り合わせだったのかとも思います。ただ、そこから何が僕を悩ませたかというと、世界選手権も何度か経験して、オリンピックにも2回出ている僕が、次に何を目標にすればいいんだろうということだったんです。そうなればやっぱり9秒台だったりファイナリストだったりするけど、02年には9秒台を出せなくて・・・・・・。だから、03年のパリでの世界選手権は、僕の中ではあまりモチベーションが高くなかったんです」

2003年は長女の出産など、陸上競技以外のことでバタバタした年でもあり、シーズンベストは10秒23と落ち込んだ。その頃には、翌年に迫ったアテネオリンピックに出場し、それから徐々に競技から離れていくつもりでいた。

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