オリンピックは平和の祭典。しかしながら、世界の歴史の中で、オリンピックもその大きな波に揺れました。今回はまず、第一次世界大戦などが勃発した激動の時代のオリンピックにスポットを当て、ユニークなエピソードを紹介していきましょう。
(写真:フォート・キシモト)
第6回大会は1916年にドイツのベルリンで開催される予定でした。しかし直前に第一次世界大戦が始まり、ヨーロッパは戦火に包まれました。そんな状況の中、ベルリン大会の開催は不可能になったのです。
戦争が終わった翌年、クーベルタンIOC会長は5年ぶりにIOC総会を召集。1920年に開催されるべきオリンピックの開催地を決めることが大きな議題でした。ヨーロッパの国はどこも戦争の深い傷跡を残しており、とくにベルギーも大きな被害を受けていたのですが、IOC総会では、あえてそのベルギーのアントワープを開催地に選びました。「平和の祭典」をプレゼントすることで、喜びを分かち合おうとしたのです。
ベルギーの国民はその期待に応えて盛大なオリンピックとなり、第7回アントワープ大会は史上最高となる29ヶ国から2,668人の選手が参加して、23競技161種目が行われました。
この大会でスウェーデン射撃チームの一員として出場したオスカー・スパーン。大会当日の年齢は72歳と280日だった。チームは見事に射撃ランニング・ディア(単発)で団体銀メダルを獲得。スパーンは今でもオリンピック史上最年長のメダリストとして歴史に名前を刻んでいます。また、最年長金メダリストもこのスパーンで、それは第5回ストックホルム大会の同じ種目で獲得したものでした。
2回目のオリンピック参加となった日本。陸上競技や水泳などではまだ世界との力の差があったのですが、テニスに出場した熊谷一弥(写真)と柏尾誠一郎の活躍が注目されました。シングルでは熊谷が銀メダルを。またダブルスでも熊谷と柏尾のペアで銀メダルに輝いたのです。
(写真:フォート・キシモト)
戦争の傷跡を乗り越えたオリンピック。第8回大会は第2回大会の舞台でもあったパリを開催地として、44ヶ国から3070人の選手を集め、19競技140種目が実施されました。大会ではアメリカがすばらしい強さを見せ、140種目のおよそ3分の1に当たる45種目で金メダルを獲得したのです。
この大会から、マイクロホンが使われるようになったことは、歴史的な出来事のひとつです。それまで競技運営の連絡などには大きなメガホンが使われていたのですが、観衆の大歓声でかき消されて選手や役員に連絡や指示が行き届かないのが問題でした。マイクロホンの登場で、その悩みは解消されたのです。
選手村が設置されたのもこの大会が初めてです。それまで選手の宿舎にはホテルが利用されていたのですが、メーンスタジアムであるコロンブ競技場の周囲に1軒4名収容のコテージが建てられたのです。
レスリングフリースタイルのフェザー級で銅メダルを獲得したのは、内藤克俊(写真)です。当時、アメリカのペンシルバニア大学レスリング部主将だった内藤。大会へはアメリカ選手団と一緒に船で向かったのですが、船中での練習中に指をケガしてしまいます。ケガをおして苦しい戦いを続けながら、まさに根性で勝ち取った銅メダルだったのです。
(写真:フォート・キシモト)
1922年のIOC総会で、かねてから議論されていた冬季大会の独立について結論が出されました。それは「1924年に試験的に独立した大会を開いてみて、その結果によって、冬の大会をどうするか確定する」というものです。したがって、この大会の正式名称は「第8回オリンピアードの一部として、IOCが最高後援者となり、フランス・オリンピック委員会がフランス冬季競技連盟とフランス・アルペンクラブ共同でシャモニー・モンブラン地方で開催する冬季スポーツ大会」というややこしいものでした。
成功するかどうか心配された大会でしたが、16ヶ国から258人の選手が出場し、4競技14種目を実施。天候にも恵まれて無事に成功したのです。
翌年、プラハで開催されたIOC総会では冬季大会の独立に異論はなく、この大会が晴れて「第1回オリンピック冬季競技大会」と認定されたのです。
(写真:フォート・キシモト)
アムステルダム大会には46ヶ国から2,694人の選手が参加。16競技119種目が実施されました。前回のパリ大会に比べると参加選手数が400人弱、競技種目数で3競技21種目少ないものの、参加国数は2ヶ国上回っています。一度は戦争で中止という時代の荒波にもまれたオリンピックですが、ようやく充実期を迎えたといえるでしょう。
小雨模様の中で行われた陸上競技・三段跳びで、織田幹雄(写真)が15メートル21という記録で見事に金メダルを獲得。日本人で史上初の金メダリストとなりました。また同じ競技に出場した南部忠平も4位に入賞しました。
また、この大会ではそのほかの種目でも日本人選手が大活躍。印象的なメダリストを紹介しておきましょう。
当時、100メートルの世界記録保持者であった人見。期待された100メートルでは準決勝で思わぬ敗退。急きょ800メートルへの出場を決め、見事に銀メダルを獲得したのです。
さて、ここまで近代オリンピックが誕生し、成長していく歴史をさまざまなエピソードとともに振り返ってきました。楽しんでいただけたでしょうか。クーベルタン男爵の提唱で始まったオリンピックも、第1回アテネ大会から30年以上の時を経て、いよいよ充実期を迎えたのです。
1925年にプラハで開かれたIOC総会では、1914年から検討を進めてきた『オリンピック憲章』が定められました。また、30年間IOC会長の重責を担ってきたクーベルタン会長が勇退を表明。オリンピックは新しい時代の幕開けを迎えたのです。
もちろんオリンピックの歴史はまだまだ続きます。ここからは箇条書き風に各大会のおもな出来事を紹介していきましょう。
(写真:フォート・キシモト)
実施競技種目数 | 5競技14種目 |
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参加国・選手数 | 25ヶ国464人 |
(写真:フォート・キシモト)
実施競技種目数 | 16競技128種目 |
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参加国・選手数 | 37ヶ国1,328人 |
ロサンゼルス大会の馬術で優勝、語学も堪能だった西は現地でバロン西と呼ばれて各方面の人々と親交を深め、優勝を祝福されました。それから約13年後の1945年。
バロン西が戦車第26連隊長として着任していた硫黄島にアメリカ軍が上陸。敗色濃厚な日本軍の中にバロン西がいることを知ったアメリカ軍は「バロン西、貴下はロサンゼルスで限りなき名誉を受けた。降伏は恥辱ではない。われわれは勇戦した貴下を尊敬をもって迎えるだろう」と呼びかけました。ロサンゼルスで優勝したときの愛馬ウラヌス号のたてがみを身につけて戦っていた西に、この呼びかけが届いたかどうか定かではありません。残念ながら西竹一は3月21日、42歳で散華しました。
(写真:フォート・キシモト)
実施競技種目数 | 4競技14種目 |
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参加国・選手数 | 17ヶ国252人 |
(写真:フォート・キシモト)
実施競技種目数 | 21競技148種目 |
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参加国・選手数 | 49ヶ国3,956人 |
(写真:フォート・キシモト)
実施競技種目数 | 4競技17種目 |
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参加国・選手数 | 28ヶ国668人 |
ベルリン大会の次、1940年の第12回大会は東京で開催される予定でした。1940年は紀元2600年(神武天皇が即位して2600年)に当たる記念すべき年で、国家的祝祭を計画していたのです。ところが、1937年には日中戦争が勃発。オリンピックの開催が近づくにもかかわらず軍部の発言力はますます強まり、ついに1938年7月15日の閣議で「東京オリンピック大会の開催は中止されたし」との勧告を出すことになってしまったのです。IOCは急きょヘルシンキを代替地として開催準備を進めましたが、まもなくソ連のフィンランド侵攻が始まり、第12回大会は中止となってしまいました。
さらに、第13回大会はロンドンが開催地として決定したものの、開催地決定からまもなくヒトラーによるポーランド侵攻を引き金に第二次世界大戦が始まってしまい、再び中止せざるを得ない状況になってしまいました。
※参考書籍『近代オリンピック100年の歩み』(監修/財団法人日本オリンピック委員会 発行/ベースボールマガジン社)