コラム/インタビュー

アスリートメッセージ

アスリートメッセージ 柔道 内柴正人

60kg級から66kg級へ

photo
2002年全日本選抜体重別選手権 男子60kg級で初制覇
(写真提供:アフロスポーツ)

小学3年で柔道を始めた内柴はすぐにのめり込み、 小学4年からは中学生や高校生が住んでいる道場の寮に泊り込むほどに熱中した。熊本県一宮中3年次に全国中学大会で優勝し、名門の国士舘高校に進んだ彼は、高校3年でインターハイチャンピオンになった。

そんな時期に練習で対戦したのが野村忠宏だった。その第一印象は「うわぁー、すごい。こんな人がいるんだ」というものだった。他の年上の選手には練習でも張り合えていたが、野村の場合は自分が力を入れる隙がないくらいのタイミングで投げられた。彼が初出場の1996年アトランタオリンピック金メダルを獲得する少し前だった。

「最初に憧れたのが野村さんでしたね。この人の強さに追いつきたいなって。当時は徳野和彦さん(1995〜1997、2000、2003年講道館杯全日本体重別選手権 60kg級優勝ほか)もいたから、『この人たちがピークのうちに追い越して、それでオリンピック代表になれたら価値があるな』と思って、合宿ではいつも追いかけ回していたんです」

チャンスは大学2年だった1999年の冬にきた。1月に開催された嘉納治五郎杯東京国際大会の準決勝で野村と対戦し勝利、そのまま内柴が優勝したのだ。その後のオーストリア国際大会でも優勝し「これで全日本選抜体重別選手権も勝てば、10月の世界選手権バーミンガム大会の代表になれる」と意気込んだ。だが4月の本番では、それ以前から苦しんでいた減量に失敗。計量の前に倒れて試合を欠場した。激しい練習を積めば筋力は付くが、その分体脂肪率も減って減量が厳しくなるのだ。

photo
2002年アジア競技大会で銅メダルを獲得
(写真提供:アフロスポーツ)

その時点で関係者からは66kg級に上げた方がいいのではないか、とアドバイスされた。だが内柴はそれを受け入れなかった。階級を上げてしまえば、野村と徳野を倒すという夢を諦めることになる。

「遠回りをしようが、諦めずに練習をすれば強くなれる」
自分の柔道人生で誇れるものはそれしかないと頑に思っていたからだ。

その後、2002年には全日本選抜体重別選手権を初制覇して、韓国・釜山で行われたアジア競技大会へ出場し銅メダルを獲得した。だが、世界選手権大阪大会の代表がかかった2003年の全日本選抜体重別選手権では、またしても減量に失敗。計量で失格になってしまったのだ。

2回目の失敗。もう野村を追いかける夢は諦めるしかなかった。

「60?級の頃は、石井慧(北京オリンピック男子100kg超級優勝)のように柔道の勝負にこだわっていて、自分のことを“侍”だと言っていました。『チャンピオンになったら死んでもいい』くらいの気持ちでやっていたんです。そこまでストイックにやったけど減量で2度も失敗して……。それで階級を上げたけど、気持ちは切れちゃったんですね。減量しなくていいから酒は飲みに行くし、きつい練習をしないで遊びに行く。自分の中に妥協する部分をいっぱい作ってしまったんです。だけどやっぱり柔道は楽しいし、好きですからね。切れてしまった気持ちをもう一度繋いで、一生懸命やったら2004年のアテネオリンピックが見えてきて。さらにもっと一生懸命やったら、代表になって、チャンピオンにもなれたんです」

オリンピックチャンピオンとして挑んだ2005年世界選手権カイロ大会で2位に終わり、北京オリンピックへ向けて気持ちを奮い立たせるには長い時間が必要だった。北京オリンピック代表が決まる2ヶ月ほど前、2008年1月末のグルジア国際大会で3回戦で敗退した後は、全日本の岡田弘隆コーチに「もうこんな苦しい戦いはやりたくないです。もう柔道を辞めたいです」と口にするまで弱気になった。

「練習さえできれば勝つ自信はあったけど、2月のフランス国際大会の前くらいは肘が痛くて練習ができなかったんです。だからもう、4月の最終選考会(全日本選抜体重別選手権)が終わったら辞めようと思っていたんです。そんな時に岡田先生が『別に負けたっていいじゃないか。北京オリンピックへ出られなくても、アテネオリンピックの金メダルがなくなるわけじゃないし』と言ってくれたんです。例えダメでも、これまでの僕の頑張りがなくなるわけじゃない。もし勝てたら、今まで獲得してきたタイトルに、それが加わるだけだから、と。そう言ってもらった時に何か気持ちが楽になって、ものすごくアグレッシブに自分の柔道ができるようになったんです」

60kg級時代にも、岡田には貴重なアドバイスをしてもらったことがあった。オリンピック王者の野村の壁をなかなか乗り越えられなくて苦しんでいた時だ。「自分の階級にどんなに強い選手がいようと、最終選考も含めて3連勝すれば、代表に選ばれる可能性は十分にある。だから、完璧な柔道で3連勝することで自分の人生を変えられるんだよ」と。その言葉を思い出しながら自分の心を掻き立てて内柴は、2003年11月の講道館杯全日本体重別選手権から、ドイツ国際大会、全日本選抜体重別選手権と3連勝して、アテネオリンピックへと歩を進めたのだ。

岡田のその言葉を思い出し、自分の柔道ができるようになった内柴は、2008年2月のフランス国際大会で2位に、4月の全日本選抜体重別選手権で3年ぶりに優勝。準決勝で敗退した秋本を抑えて、2度目のオリンピック代表に選ばれた。


2008年全日本選抜体重別選手権で優勝。北京オリンピックへの切符を手に入れた
(写真提供:フォート・キシモト)

アスリートメッセージ一覧へ




ページトップへ