大会ポスター日本がストックホルム大会に参加するためには、まず国内のスポーツを統括する団体の設立が絶対条件でした。それはIOCからオリンピックに参加する各国に対して、それぞれにオリンピック委員会(NOC)の設立を求められていたからです。
嘉納校長は学識者との会合を重ね、1911年7月に大日本体育協会の設立に至りました。最初の役員には、嘉納治五郎会長、大森兵蔵、永井道明、安部磯雄各氏が理事に就任。間近に迫ったストックホルム大会に向けて、国内オリンピック予選会と代表選手派遣の事業に取り組むこととなりました。
まだ日本国内ではオリンピックについて知られていなかった当時、オリンピック予選会に合わせ予選会開催趣意書、選手募集要項、競技規定を掲載した18ページにもおよぶパンフレットを制作するなどオリンピックの存在を国民に知らせるための努力を重ねていき、91名の参加のもと陸上競技を中心に日本代表の座を目指して予選会が行われました。
熱戦の結果、100、400、800メートルを制した三島弥彦選手(東京大学)、25マイルのマラソンで好記録を出した金栗四三選手(東京高等師範学校)の2人が日本初のオリンピック代表選手に選ばれました。こうして嘉納会長を団長に、大森兵蔵理事を監督とし、総勢4名の日本代表選手団は1912年5月16日、シベリア鉄道を利用して遥かなるスウェーデンの首都、ストックホルムを目指したのです。
(参考文献・日本体育協会75年史)