東京オリンピック1964

トップアスリートインタビュー

川淵三郎選手(サッカー)
東京オリンピックを振り返って 川淵三郎選手
東京オリンピックにサッカーのフォワードとして出場した川淵さんが、代表チームのコーチを務めた「日本サッカーの父」クラマー氏との日々を振り返りました。

 東京大会の頃、競技団体としての歴史は長く伝統のある団体ですが、サッカーは人気が薄い競技でした。
 当時のサッカー選手はみな、東京大会をきっかけにサッカーという競技を世界レベル近くまで高め、日本の中でメジャーな競技にしたいと思っていました。
 東京大会を目指して強化を図るため外国人のコーチを置くこととなり、その後日本サッカーの父と呼ばれるようになるデッドマール・クラマーと1960年の夏にドイツで初めて会いました。それからの4年間は日本のサッカーの歴史の中で一挙に成長した時でした。それはまるでインクが吸い取り紙にしみ込むようでした。正しい基本技術を教わることから始まり、4年かかって東京大会でアルゼンチンに勝ってベスト8に残り、その遺産がメキシコ大会の銅メダルにつながったのです。クラマーコーチはドイツサッカー協会からの紹介でしたが、日本は通常ドイツのコーチが受け取る報酬と同様の額を支払うことができませんでした。ぼくは選手だったので具体的な金額までは知りませんが、十分なコーチ料は出せませんよ、と予算を提示すると、それで結構だと犠牲的精神で来てくれたのです。クラマーコーチの指導はすべて具体的で、基本に忠実で的確で、まさに目から鱗が落ちる思いでした。
 本当に日本にとって素晴らしい指導者で、画期的な影響を日本にもたらしました。東京オリンピックの開催は日本のサッカーのスタートといえます。

 残念ながらごく一握りの人だけが8年間強化されて銅メダルにつながりましたが、その選手たちが引退すると次に続く選手がいなかったためにメキシコ大会以降、日本のサッカーはだめになってしまったのです。28年間の様々な苦労の末Jリーグが誕生し、オリンピックはアトランタ大会から連続で出場できるようになりました。このすべての歴史の始まりが東京オリンピックとデッドマール・クラマーにあったといえるのです。
 サッカーでも日本代表選手になることは大変なことでした。日の丸のついた日本代表のトレーニングウエアはサッカー選手の憧れでした。代表になると、サッカーの場合は自己負担ゼロで海外に遠征ができました。私が初めて日本代表選手になったのは1958年、大学2年生の時で、それから毎年海外遠征がありました。58年と59年は東南アジアで、1960年に初めてヨーロッパへ行きました。渡航が自由化されていなかった時代で、飛行機に乗ると航空会社がバッグをプレゼントしてくれました。ほとんどの日本人が海外に行けない時代に、外国に行った人しか持てないものを持ち歩くことが鼻高々でした。代表の夢はユニフォームとエアバッグ(笑)。

 開会式は2時間も前から集合させられて、そこで初めて行進の練習をしました。待ちくたびれていよいよ入場門に入ると、ウワーッ!というどよめきと歓声が聞こえました。ぼくの一生の中でもあの瞬間ほど一挙に胸が熱くなる思いをしたことはありません。今のオリンピックではサッカーは試合の日程で開会式に出られませんので、あのような感動を経験できないことは、思い出の一つを奪っていることになるのでかわいそうだと思います。

 試合は優勝候補のアルゼンチンに3対2で逆転勝ちしました。日本は1次リーグ突破は難しいといわれていました。幸いにも優勝候補の一角のイタリアチームにプロの選手が1人入っているとう情報が流れ、出場しなかったため、1勝で決勝リーグに残ることができました。今調べているところですが、イタリアチームの情報を流したのは18歳以下のスーパースター、マッツオーラ選手が所属するクラブだったらしい。当時サッカーの世界ではオリンピックはマイナーだったのです。今はU23となってみんなが出たい、勝ちたいと思うようになりましたが。
 アルゼンチンに勝った試合が一番印象に残っています。この試合は80分間は全くだめで、残りの10分間だけしっかし試合ができたのです。釜本選手から来たセンタリングをヘディングシュートして1点入れましたし、最後は決勝点をアシストもしました。最悪の状態でそれなりの結果が残ったということが印象深く、ある意味で自分の人生を象徴している部分があると思っています。
 東京オリンピックに出たいと思っていた8年間は、年間1,000時間ほどの練習をしました。大切なことはアルゼンチンに1点入れたことではなく 8,000時間練習した、そのプロセスこそが今の人生に役立っているのです。
 東京大会はぼくの人生にとってエポックメーキングなことで、その28年後にスタートするJリーグの考え方はこの時に出会ったクラマーが、日本のサッカーが世界に発展して行くためには日本全国をカバーした強いチーム同士のリーグ戦をしないと世界レベルに追いつきませんよ、と言った提案に基づいているのです。サッカー界での大きなうねりの元はすべて東京オリンピックにあると断言できます。

 東京大会は10月10日まではほとんど毎日雨だったから、雨の中の練習でスパイクシューズがブカブカになってしまっていて、靴の中で足が泳いでしまうほどでした。これには青くなり、それまで使い慣れていたシューズに急遽取り替えたので、精神的なダメージになってしまいました。日頃履き慣れているシューズを履けなかったというショックがあの80分間だったということです。他の選手にも分かってしまうので、ぼくのところにパスが来なくなってしまいました。今は1試合3人まで交代できますが、当時は一切交代が認められませんから11人の最初のメンバーで闘わなくてはならない。今ならとっくに前半で交代させられていたでしょうね。
 当時のスパイクシューズは今のように革の鞣しが良くなく、足を入れてすぐにフィットするなどというものとは全く違います。
 きちんと道具を手入れして次の試合の準備をする選手と放ったらかしの選手がいたけれども、ぼくは放ったらかしの方だった。クラマーには試合をする刀をまるで研いでいなかったと怒られました。

 ぼくは当時サッカーが最も強かった古河電工に就職していました。東京大会の代表に1社から監督以下6人が選ばれました。会社は全面的に協力し、応援してくれて、心から祝福してくれました。会社が理解してくれているということはサッカーを続ける上で大きいことでした。代表選手になると、海外遠征に1カ月ほど行きますし、合宿もあるので、1年のうち2〜3カ月は会社にいないことになります。当時は仕事は仕事でしっかりして、そしてサッカーをする。会社や他の人に迷惑をかけず、サッカーをさせていただいてる、という姿勢でしたから職場から愛されていました。社会人の場合は職場の人が本当に応援しようという気持ちになれないとその頃は週末のほか火曜日と木曜日が午後半日会社を抜けてチームの練習ができる日で、残りはみな自己トレーニングでした。練習の環境は今とは比較になりません。恵まれていない分、練習にも工夫が必要で必死でした。
 海外遠征も、監督、コーチ、マネージャーと選手だけですから、誰かがケガでもすれば英語の辞書片手に病院へ行くし、洗濯は全部自分でしなくてはならない。いつもぴちっとしたユニフォームに白いストッキングの選手もいれば、よれよれのユニフォームにネズミ色のストッキングの選手もいるわけです。ぼくは洗濯が嫌いだったから、ネズミ色の方(笑)。
 試合には会社の同期や1年下の後輩が本当によく応援してくれました。今でも交流は続いています。

川淵三郎選手(サッカー)
・川淵三郎 かわぶち・さぶろう
 1936年12月3日大阪府高石市出身。三国丘高から早大へ進み、東京オリンピックにも出場。現役引退後はサッカーJリーグ初代チェアマン、日本サッカー協会会長などを務め、「キャプテン」の愛称で親しまれる。

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