東京オリンピック1964

HOMEコラム/インタビュー東京オリンピック1964東京オリンピック開催へvol.2 悲願の東京オリンピック開催へ

東京オリンピック開催へ

vol.2 悲願の東京オリンピック開催へ

第12回大会の開催返上そして第18回大会開催へ

 第18回オリンピック競技大会となる東京オリンピックの開催が決定したのは、1959年5月26日、西ドイツのミュンヘンで行なわれた第56次IOC総会でのこと。かつて第12回大会の開催地が東京に決定しつつも開催返上をしてから、実に20年の月日が経過していた。

 1929年、来日していた国際陸上競技連盟のエドストローム会長(スウェーデン、元国際オリンピック委員会会長)と、日本学生陸上競技連盟会長の山本忠興博士との間で、第12回大会の東京開催について、その可能性について意見が交換された。そして1930年6月、国際学生陸上競技選手権大会に総監督としてドイツに赴こうとしていた山本博士と、当時の永田秀次郎東京市長との会見の席上で、東京へのオリンピック招致の第一歩が始まった。

 当時の資料では、山本博士が永田市長に対し、「1940年(昭和15年)は紀元2600年にあたる。第12回オリンピック競技大会を招致し、我が国がオリンピックを開催するに絶好の機会であると思う」と語ったとされる。これに永田市長が賛同。翌年には東京市会でのオリンピック大会招致決議案を可決。1932年7月に市会にオリンピック大会招致のための実行委員会が設置された。同年、嘉納治五郎、岸清一の両IOC委員により、東京招致の正式招請状がロサンゼルスで開催された第30次IOC総会に提出された。

 第12回大会の招致に名乗りをあげていたのは、ローマ(イタリア)、バルセロナ(スペイン)、ヘルシンキ(フィンランド)、ブダペスト(ハンガリー)、アレキサンドリア(エジプト)、ブエノスアイレス(アルゼンチン)、リオデジャネイロ(ブラジル)、ダブリン(アイルランド)、トロント(カナダ)の9都市。これに東京が加わって、招致活動が行なわれた。

 前述の嘉納、岸両IOC委員に加え、杉村陽太郎博士、副島道正伯(ともにIOC委員)、さらに徳川家達公(後にIOC委員)が会長を務めたオリンピック大会招致委員会などによる積極的かつ地道な活動が実って、1936年7月31日、ベルリンのホテル・アドロンで行なわれた第35次IOC総会で、東京が開催地として選ばれた。最後まで東京と招致合戦を繰り広げたヘルシンキとの間で決戦投票が行なわれ、東京が36票を獲得。対するヘルシンキは27票だった。

 当初東京の最大のライバルとされていたローマは、当時のイタリア首相であったムッソリーニ自らが招致活動の先頭に立っていた。これに対し、当時のイタリア大使であった杉村IOC委員と、副島IOC委員がローマの立候補辞退についてムッソリーニに直接交渉。見事成功した。日本の「紀元2600年祝典を記念するために、譲歩すべきである点までの有効的諒解を得た模様」と日本体育協会史に記されている。

 東京開催が決定した翌年の1937年9月2日、スイスのジュネーブで静養中だった国際オリンピック委員会名誉会長であったピエール・ド・クーベルタン男爵が死去。74歳だった。

 また、日本の「オリンピックの父」と言われた嘉納IOC委員は、1938年にカイロ(エジプト)で行なわれた国際オリンピック委員会に派遣された。そしてその帰路、客船永川丸船中で5月4日に死去。79年の生涯を終えた。
祖国日本でのオリンピック開催という大いなる夢を、大海を進む客船の船上で描きつつ静かに瞼を閉じた。四半世紀を超えてオリンピックのために尽してきた人生であった。

 嘉納IOC委員の死去のおよそ1年前、中国大陸では日華事変が起こっていた。1937年7月7日のことである。
陸軍からは、馬術競技において現役将校を出場させることは不適当であることとに加え、出場への準備は中止すると発表がなされた。さらに、中国大陸での戦況の拡大に伴い、政府によって鉄材の統制が行なわれた。それは競技場建築などに多大なる支障をきたし、さらには東京市の起債認可についても不可能な状況になっていった。

 1936年に組織された東京オリンピック組織委員会、東京市、大日本体育協会の懸命なる努力にもかかわらず、1938年7月15日の閣議において、東京大会中止の決議がなされた。
オリンピックを主管する厚生省からは、広瀬久忠厚生次官名で、小橋一太東京市長あてに大会中止を伝える通達文が発せられた。

 国際オリンピック委員会は、東京大会の開催返上に対し第12回大会をヘルシンキで開催することを決定したが、第二次世界大戦の影響を強く受け開催は不可能となった。また1939年のIOC総会で、1944年にはオリンピックをロンドンで開催することも決定していたが、この大会もまた開催することはできなかった。

 戦火により2大会続けて平和の祭典が中止となり、再びオリンピック旗のもとに各国から選手が集うのは、1948年にロンドンで行なわれた第14回大会のことになる。1936年にベルリンで開催された第11回大会から12年後のことである。

 

厚生省発件第44号
昭和13年7月15日

オリンピック大会開取止ニ関スル件
第12回オリンピック大会ニ就イテハ政府ニ於テ成ルベク大会ヲ開催シ得ル様希望シ来タルガ現下ノ時局ハ挙国一致物心両面ニ亘リ益々国家ノ総力ヲ挙ゲテ事変ノ目的達成ニ邁進スルヲ要スル状勢ナルニ鑑ミオリンピック大会ハ之ガ開催ヲ取止ムルヲ適当ナリト認ムル以テ此ノ趣旨御諒承ノ上善後ノ処理ヲ講ゼラレ度右依命及通牒候也。

「東京オリンピック開催へ」その他コラム

東京オリンピック1964


ページトップへ