コラム/インタビュー

オリンピアンズトーク


1988年第24回ソウル大会、1992年第25回バルセロナ大会、そして1996年第26回アトランタ大会と3回のオリンピックに出場したプロテニスプレーヤーの松岡修造さん。
現役を引退された今、スポーツ選手の活躍をメディアで伝える立場となり、松岡さんにしかできないスポーツ報道の取り組み方があるということを強く感じていると語ってくださいました。

オリンピックに出場して感じたこと

 プロテニスプレーヤーである僕たちは、グランドスラムに出場し、試合で勝つために、移動のための飛行機や宿泊するホテルのクラスを含め、すべてにおいて最高の環境を用意して臨みます。テニスの場合、それが当然のことなのです。
 ところが、オリンピックに初めて参加したソウル大会で、僕は本当にびっくりしてしまいました。何故ならそこに用意されていたのは、とても選手にとって最高とは言い難い環境だったからです。例えば、選手村の日本選手団の宿泊施設は25階建ての高層建築でしたがエレベーターは1機しかなかったため、10階までに部屋がある選手はそのエレベーターを使用しないようにと決められたことがありました。全力で試合に臨んだ選手が、疲れた身体を休めるための場所に向かうのに、もう一度体力を使わなければならないのです。何ということだ、と、テニスの場合とのあまりの環境の違いに驚かされました。

 しかし、少し時間が経ってみると、4年に1度しかチャンスが巡ってこない競技の選手たちの気持ちが理解できるようになりました。どんな環境であろうとも最高のパフォーマンスを出して勝つ選手がいて、必ず勝敗はつきます。負けた選手は次のチャンスを掴むまでに4年待たなければなりません。アスリートにとって4年という時間はあまりにも長いと思います。オリンピックに参加することで、そこに集うアスリートの気持ちが痛いほど僕に伝わり、オリンピックが大好きになっていったのです。

 僕は3回連続オリンピックに出場しましたが、残念ながらいずれも1回戦で敗れてしまいました。そのおかげで、いろいろな競技の方から「松岡さん、試合を見に来ませんか?」とチケットをいただき、できない競技の試合もたくさん観ることができ、スポーツの観戦の醍醐味を感じたと同時に、日本選手を応援するようになっていきました。

 もう一つ僕がオリンピックに感じていることは、開催国の変化です。僕はまだ生まれていませんでしたが、40年前の東京オリンピックは、日本という国や、日本の文化のことを世界に向けて発信するための絶好の場だったはずです。日本国民全員が同じ気持ちで世界の人々を迎えることができたから、東京が世界に知られる存在になったのだろうと思います。それは、僕が参加したソウルでも同じように感じられました。

アテネで戦う選手たちへの期待

 アテネ大会では日本のチーム競技に期待しています。特にソフトボールやシンクロナイズドスイミングなど、女子の団体競技は勢いがあります。個人的には、メディアに多く出てこない競技もきちんと見て、伝えたいと思っています。
 また、水泳にも注目しています。アトランタ大会の時は、競泳でメダルがたくさん取れそうな予想でしたが惨敗しました。あのときのショックが、結束力の強い今の競泳チームを作っていると思います。

 日本代表選手団の主将でもある柔道の井上康生選手は、金メダルを取ることを前提に、今はどのように一戦一戦を戦うかを考えていることでしょう。井上選手は、スポーツを通して日本を世界にアピールすることができる類い稀な選手だと僕は思っています。
 柔道は日本で生まれ、世界で行われているスポーツです。礼に始まり礼に終わる、相手を尊ぶという精神も含めて、世界の人たちは井上選手を日本そのものとして見ているはずですし、本人もそのように理解しているでしょう。

選手たちの真の思いを伝えるために

 今の時代に欠けているもの、それはまさにオリンピックの原点だと感じています。その部分をメディアを通して伝えたい。それは、選手たちの真剣さとひたむきさ。指導者を含め、死にものぐるいで必死な姿を感じてもらいたいのです。
 そのためにはオリンピックの試合をただ単に放送するだけではダメなのです。オリンピックに出るために必死で耐えてきた練習の様子なども紹介し、より選手たちの気持ちを理解し、共感を持ってもらえるようにしたいと思っています。そして特に日本の若い世代に、ひとつのことに必死に打ち込む姿、ここまでしなければ金は取れないのだということを分かって欲しいのです。

自分の力を本番で出すために

 オリンピックというのは、ひとつのお祭りです。僕もそうでしたが、お祭り騒ぎの雰囲気に惑わされて頭の中が真っ白になってしまい、実力を出し切る前に終わってしまったという選手が結構多いのです。
だからこそ、チームの中に経験者がいることが大切なのです。プレイをする前に、初めて参加するメンバーへ『ほかのことに気を取られて、実力を出し切る前に終わってしまうこともあるから気をつけよう』とアドバイスをしてあげることができます。
 そして選手たち全員に、もし負けたとしても『今できることは、全部やりました』と言い切れるよう、全力を出しきって欲しいと願っています。

スポーツを文化として醸成させるためには

 今の日本ではオリンピックが熱狂の対象になってしまっていて、文化として受け入れられていないと思います。放送についても、金メダルが取れそうだとか有名だからということだけでなく、もっと選手の日頃の練習の積み重ねを理解してもらう方法はないかと考えています。
 アスリートたちの努力を知った上で応援すれば、スポーツの見方が変わると思うのです。スポーツが文化として認められるようになれば、メダリストの社会的な受け取られ方や立場も向上してくるのではないかと思います。

松岡修造
1967年東京都生まれ。
プロテニスプレイヤー。
10歳で本格的にテニスを始め、慶応高校2年の時に名門である福岡の柳川高校に編入。同年高校総体単・複・団体で三冠を達成。その後、世界的に有名なボブ・ブレット氏と運命的な出会いがあり柳川高校を中退、単身フロリダに渡り、1986年にパーマーアカデミーを卒業後プロに転向。
1988年、初めて世界ランキングトップ100の壁を破り、世界のトッププロの仲間入りを果たす。
1989年にヒザを、1990年には足首の靭帯を損傷し、再びカムバックを果たした1992年、KALカップで日本人男子選手として初めてATPツアー優勝、同年6月にはステラアルトワ・グラスコート選手権で準優勝。1995年のウィンブルドンでは日本人男子として62年ぶりに、ベスト8進出の快挙を成し遂げた。
1998年4月のジャパンオープンを最後に、プロツアーを卒業。同時にジュニアの育成とテニス界の発展のために、テニス活性化プロジェクト「修造チャレンジ」を設立。
さらに、世界を目指す日本人若手選手のための大会や、小さな子供でも楽しめるショートテニスを使ったクリニックなどを全国で展開中。また、1998年より、日本全国から選抜した15歳以下の男子ジュニア選手が対象の「トップジュニアキャンプ」も行っている。
2004年4月より、テレビ朝日『報道ステーション』で、さまざまなスポーツのリポートや選手の横顔を伝えている。
・財団法人日本オリンピック委員会 アスリート委員/スポーツ環境委員
・日本オリンピアンズ協会 理事/広報委員 ほか



ページトップへ