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アスリートメッセージ

アスリートメッセージ フェンシング 太田雄貴

僕を大きく成長させてくれたオリンピックに恩返しを

文:折山淑美

小学5年の時、日本フェンシング界の
メダル第1号になると決めた

「僕は確率論を信じているんですよ。だからベスト4に残った時点で『メダルは獲れる』と思っていました。残った4人のうち3人がメダルを獲れるから、確率は75%ですよね。それってすごい高いじゃないですか」

太田があっけらかんとした表情で話したのは、2008年8月の北京オリンピックで、彼が銀メダルを獲得してから数日後のことだった。フェンシングの試合では準決勝からの対戦は、会場内に特別に用意したセンターピストへと舞台を移す。試合に先立って4人の選手がピストに並び、ひとりずつ紹介されて観客に挨拶をして1試合ずつ行われ、会場中の眼がふたりにだけ注がれる。「これぞフェンシング!」という舞台設定。多くのフェンサーが憧れる世界大会のその特別な舞台は、太田が世界のフェンシングを知って以来、憧れ続けていた場所だった。

オリンピックという大舞台で、そこへ立てることが決まった太田は、「夢の舞台だから思い切り楽しんできます」と言って準決勝へ向かった。その時の彼の心の中は、子供の頃から持ち続けている“強気の虫”に占領されていたのだ。


太田選手(左)が憧れ続けていた、オリンピックでのセンターピスト(写真提供:フォート・キシモト)

2007年、世界ランキングを一時5位まで上げていた太田は、取材を受けるたびに「メダルを狙います」と公言していた。冷静に考えれば確率は低いが、可能性がある限りは狙いたいと。

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国立スポーツ科学センターの
フェンシング練習場にて

その思いの源は、小学5年だった1996年夏に遡る。小学3年で太田にフェンシングを始めさせた父・義昭氏が、僅かなツテを頼りにバルセロナ、アトランタとオリンピックに連続出場した市ヶ谷廣輝氏にレッスンを申し込んだのだ。

その印象は強烈だった。とんでもない強さ。考えられない所から剣が飛んできて、簡単にポイントを取ってしまう異次元のフェンシングに衝撃を受けた。だが、そんな市ヶ谷がオリンピックでは1回戦負けだったというのを聞くと、太田は子供心に「これだけ強い市ヶ谷さんが勝てないのなら、日本がオリンピックでメダルを獲るのは難しいな」と思った。そしてさらに、「それなら自分が、日本フェンシング界のメダル第1号になってやろう」と考えたのだ。

目標にするのは22歳で迎える2008年のオリンピックだ、と心に決めた。

太田はフェンシングを始めて半年足らずで、国内の強豪選手も出場する京都府の大山崎町長杯の小学校3〜4年の部で優勝した。翌年の全国少年大会小学生の部(4〜6年)は決勝で敗れるが、5年、6年は連覇。中学1年ではベスト16止まりだったが、2年、3年と同大会中学生の部を連覇し、心の中に秘めた大きな目標へと歩を進めた。

「中学を卒業する頃、僕の中にひとつのプランがあったんです。僕が小学校5年の時、福田佑輔さんが鳴り物入りでインターハイデビューをして3位になり、その後は2年、3年と連覇をしていた。だから僕は、それを超えるインターハイ3連覇をして歴史に名前を残したいなと思っていたんです。それとともに高校2年で全日本選手権へ出場してナショナルチームへ入り、大学1年でアテネオリンピックへ出場するという構想を考えていたんです」

北京オリンピックでメダルを獲るためには、その前のアテネでオリンピックを経験しておかなければいけないという、欲張りな計算だった。

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アテネオリンピック フェンシング
男子フルーレ個人3回戦
(写真提供:フォート・キシモト)

そう思ってはみてもそれがかなり難しいのはわかっていた。オリンピックへ出るためには、その前に世界選手権やワールドカップに出場してポイントを取り、世界ランキングも上げておかなければいけないからだ。

だが、そんな思いに強烈な追い風が吹いた。座骨の剥離骨折で苦しみながらも、インターハイ連覇を達成した高校2年の2002年。「ベスト8までいければ満足」と思って臨んだ11月末からの全日本選手権で、史上最年少優勝(17歳)を果たしたのだ。決勝の対戦相手は小学5年の初レッスン以来指導を受けている市ヶ谷。第1セットでいきなり、2対10とリードされてからの逆転優勝だった。

「あの優勝で一番大きかったのは、ナショナルチームへ無条件で入れるようになったことですね。ナショナルチームに入るには、選考会で5番以内にならなければいけなかったから、当時6〜7番手だった僕には厳しかったんです。それがオリンピック前年に(選考の対象試合である全日本選手権で優勝して)1番で入れるわけだから、これは他の年の優勝よりも何百倍も価値があったんです」

しかし、アテネオリンピックの出場権を狙うレースで、太田はいきなり窮地に追い込まれた。2003年5月、ドイツ国際大会で、足首の靱帯を断裂してしまい戦線を離脱せざるを得なくなった。一時は諦めかけたオリンピックだったが、インターハイで3連覇を達成するまで復活し、10月の世界選手権代表にもギリギリで滑り込んだ。オリンピックレースに復帰した彼は、2004年3月の韓国国際大会でベスト8入り、続く高円宮ワールドカップ福井大会では3位と、最後の追い上げで逆転して日本人最高位になり、アジア枠でのアテネオリンピック出場を果たしたのだ。

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