日本オリンピック委員会(JOC)は6月20日、オリンピック・ムーブメントセミナー(令和8年度第1回オリンピアン研修会)を、日本オリンピックミュージアム(JOM)を会場としてオンライン併用のハイブリッド形式で開催しました。
本セミナーは、主にオリンピアンを対象に、現代のスポーツ界が直面する重要な社会課題について学び、これからのアスリートや組織が果たすべき役割を考えることを目的としています。今回はウエイトリフティングの齋藤里香氏(JOCオリンピック・ムーブメント事業専門部会員)が総合司会を務め、「気候変動対策」と「アスリートへの誹謗中傷対策」の2つのテーマを軸に、専門家によるセッションと、現役選手・オリンピアン・パラリンピアンによるディスカッションが展開されました。
■JOAセッション:オリンピックにおける気候変動対策とアスリートの役割~
最初のセッションでは、日本オリンピック・アカデミー(JOA)理事であり、日本スポーツ協会(JSPO)スポーツ科学研究室主任研究員を務める石塚創也氏が登壇。「気候変動によるスポーツへの影響や、それに対するスポーツ界における取り組みを紹介するとともに、この課題に対してアスリートは何ができるか」をテーマに講演を行いました。
石塚氏は、近年の地球温暖化がスポーツ環境に与えている深刻な現状を報告。Jリーグにおける大雨を中心とした試合中止数の増加や、国内の冬季大会における深刻な雪不足、酷暑による熱中症リスクの増大などを具体的なデータを交えて解説しました。スポーツ環境を守るため、スポーツ基本法の改正など国内でも対応が進む中、国際オリンピック委員会(IOC)も温室効果ガス排出量の削減や「オリンピック・フォレスト」のような植林活動を通じた気候変動へのコミットを加速させているそうです。
石塚氏は最後に、「人間力なくして競技力向上なし」というJOCの指針に触れ、気候変動をはじめとする社会課題に向き合い、自ら発信・行動していく姿勢こそがアスリートの「人間力」を高める要素であると語り、スポーツ界をリードする存在としての期待を寄せました。
■JOCセッション:アスリートへの誹謗中傷対策
続く第2部では、「アスリートへの誹謗中傷対策」をテーマに、近年SNS等において顕在化し、アスリートの心身に深刻な影響を及ぼしている誹謗中傷の問題について、JOCおよび日本パラリンピック委員会(JPC)による取り組みと現状が共有されました。登壇した柔道の谷本歩実氏(JOC理事・AINAGOCアスリート委員長)、車いすラグビーの三阪洋行氏(JPC委員長・AINAGOCアスリート副委員長)から、直近のミラノ・コルティナ2026冬季大会におけるSNSモニタリングの具体的な結果が報告され、陸上競技の赤松諒一選手(JOCアスリート委員)を交えてそれぞれの立場からの意見が述べられました。
谷本氏は、AIを活用したモニタリングに加え、弁護士や専門家と連携したJOC・JPCのSNSモニタリング体制を説明。競技終了後から選手が携帯端末を目にするまでの僅かな時間にも目を光らせ、悪質な投稿への削除要請などを迅速に実施した実績を報告しました。また、相談窓口である「ホットライン」が選手に十分に活用されていない現状にも触れ、選手たちが安心してSOSを出せる環境づくりの必要性を強く訴えました。
現役選手としてパリ2024大会に出場した赤松選手は、SNSはファンとの距離を縮め、競技の認知度を高める上で非常に便利なツールであると語る一方、その手軽さゆえに心ない言葉につながりやすい現状を指摘。競技結果やパフォーマンスそのものへの批判のみならず、根拠のない憶測による書き込みがアスリートの尊厳を傷つける可能性に触れ、選手個人がSNSと適切な距離感を保ちながら付き合っていくスキルの重要性を述べました。
パラリンピアンとして長年活躍してきた三阪氏は、今回のミラノ・コルティナ2026冬季大会において、パラリンピック関連の投稿数がオリンピックに比べて圧倒的に少なく、削除要請も0件であった事実を報告。認知度や注目度の差という課題を示すとともに、パラスポーツ特有のクラス分けに対する無理解など、障害の特性そのものに目を向けられる中傷が散見される現状を明かしました。その上で、周囲のサポートやメンタル面での相談体制の充実化、社会全体でパラスポーツへの理解を深めていくことが不可欠であると語りました。
■パネルディスカッション
続く第3部のパネルディスカッションでは、第1部に登壇いただいた石塚氏も交え、登壇者全員でのパネルディスカッションが実施されました。
気候変動の話題では、開催地が直面する具体的な環境対策とアスリートのコンディショニングとの両立について踏み込んだ議論がなされました。谷本氏からは、環境配慮のためにマイボトルが支給されたパリ2024大会における取り組みが紹介され、「良かれと思って導入された先進的な環境対策であっても、事前のアスリートへの周知や運用が不足していると、現場で思わぬ混乱やストレスを招くことがある」と指摘。こうした大会現場での経験を組織委員会や関係団体へタイムリーにフィードバックし、常に「アスリートファースト」の視点から対策をブラッシュアップしていく必要性に言及しました。石塚氏はこれを受け、パリ2024大会では気候変動対策の一環として選手村にエアコンを設置しない取り組みが行われたようであるが、これには熱中症のリスクがあり、特にパラリンピアンの中には体温調整が難しい方がいて、生死に関わる問題にもなりうることを指摘。「無駄を省いたり、最新技術を取り入れることはもちろん大切であるが、やはり多種多様なステークホルダーと連携し、様々な立場の意見を反映した対策が必要なのではないか」と述べました。
また、今秋に開催を控える愛知・名古屋2026アジア・アジアパラ大会の展望では、既存施設やホテルのバリアフリー対応が大きな焦点となりました。三阪氏からは、今回のアジアパラ大会において既存の宿泊施設(18ホテル)を大規模に活用する計画が共有され、選手たちが安心して活動できるアクセシビリティを確保するため、専門家を交えた丁寧な現地視察と課題解決が進められていることが報告されました。パラスポーツを起点として、街全体のインフラやバリアフリーの考え方が進化し、大会後も「多様な人が集まれる地域社会」という有形無形のレガシーを残すことの重要性について語られました。現役選手として同大会への出場が内定している赤松選手は、「プレ大会となった日本選手権での超満員のスタンドを目の当たりにし、地元開催への期待と熱量を肌で感じた」と語り、大会でのメダル獲得への固い決意を述べました。
第2部で紹介された誹謗中傷対策の議論では、参加したオリンピアンから、自らの経験を踏まえた率直な思いが共有されました。誹謗中傷は競技活動への影響に留まらず、日常生活においても大きな不安や負担をもたらすこと。当事者だけでなく周囲の家族や友人等の心身にも深い影響を及ぼすこと。そして、どんなアスリートであっても、その苦しみを一人で受け止め乗り越えることは容易ではないという現実が語られました。
また、試合後の不可解な判定やチームスポーツにおける勝敗の責任が特定のアスリートに集中した際、解説者が「丁寧で建設的な解説」を行うことで、炎上等を未然に防ぐことができたという具体的な事例も共有された。アスリート本人だけでなく、周囲のスポーツを支える側のリテラシー向上の重要性が示唆された。
石塚氏はこれを受け、「『ウェルフェアオフィサー』の更なる育成とともに、アスリートが安心していつでもSOSを出せる『メンター(相談者)』のような存在を、組織の垣根を越えて配置できる仕組みが不可欠ではないか」と提言。単に悪質な投稿を検知・削除する技術的対策にとどまらず、アスリートを精神的に孤立させない包括的な防衛網の構築や、選手・周りのコーチやスタッフへの教育も進めるべきであるという意見で一致しました。
最後に、スポーツ界全体として、ネガティブな発言を「消す」ことばかりに注力するのではなく、ファンとアスリートが互いをリスペクトし合う「温かい言葉の循環(ポジティブな応援の文化)」を意図的に醸成していくことが、真のアスリート保護につながるという本セミナーの総括的なメッセージが導き出されました。
ディスカッションの締めくくりとして、現役選手でもある赤松選手は「自分たちが競技活動やSNSを通じてできるアクションをこれからも見つけていきたい。スポーツと環境とのつながりや、誹謗中傷対策に寄与するメッセージの発信など、自分たちにできることをこれからもどんどん続けていきたい」と、今後の前向きな取り組みへの意志を表明しました。また三阪氏は、この問題への社会全体の取り組みの重要性を強調した上で、「何よりも周囲の支え合う言葉やリスペクトの精神が、アスリートが極限の舞台で戦うための最大の力になる。お互いが支え合い、認め合う言葉が生まれるようなポジティブな社会をスポーツ界から発信し作っていきたい」と語りました。谷本氏も、これまでの歴史や課題解決に向けた歩みを踏まえ、「選手たちが『この大会に参加して良かった』『この環境で本当に良かった』と思えるよう、組織委員会や関係団体と一丸となってアスリートの声をしっかりと届けていく。ネガティブな発言を消すだけでなく、ファンとアスリートが互いをリスペクトし合う温かい文化の醸成を目指したい」と締めくくりました。
最後に総合司会の齋藤里香氏より、「本日お話しいただいた環境のリスクやアスリートの健康を守る側面、そしてSNSにおける誹謗中傷の対策は、アスリートが安心・安全に競技に挑むためにどれも不可欠な要素です。本日ご参加いただいた皆様が、オリンピック・ムーブメントの多様な側面を知り、これからのスポーツ界のあり方を共に考える貴重な機会となったことを願っております。本日お集まりいただいた皆様とともに、オリンピック・ムーブメントをさらに力強く前進させていきましょう」と総括の挨拶がありました。JOCとJPCは、アスリートが安心・安全に挑戦を続けられる環境をしっかりと整えるとともに、参加したオリンピアン・パラリンピアンたちと一体となり、このオリンピック・ムーブメントをさらに推進していく決意を新たに、セミナーは幕を閉じました。
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