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2021.07.22 オリンピック

山下JOC会長×河合JPC委員長特別対談(前編)選手時代に体験したオリンピック・パラリンピック精神の本質

山下JOC会長×河合JPC委員長特別対談(前編)選手時代に体験したオリンピック・パラリンピック精神の本質
山下泰裕JOC会長(左)と河合純一JPC委員長(中)による特別対談(写真:フォート・キシモト)

 東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会の開幕を間近に控えるなか、日本オリンピック委員会(JOC)の山下泰裕会長と、日本パラリンピック委員会(JPC)の河合純一委員長による特別対談が実現しました。

 1年の開催延期を経て迎える東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会。改めて、大会の開催意義やオリンピック・パラリンピック精神とその価値、また、現役選手時代に出場した大会で得た経験などを語っていただきました。

 今回の前編では、主に現役当時の大会の思い出や経験を振り返りながら、今の活動にもつながっているオリンピック・パラリンピック精神についてお話しいただいています。

 なお、2008年北京オリンピックと2012年ロンドンオリンピックに競泳で出場したオリンピアンである伊藤華英さんが対談のファシリテーターを務めました。

山下JOC会長×河合JPC委員長特別対談(前編)選手時代に体験したオリンピック・パラリンピック精神の本質
山下泰裕JOC会長(写真:フォート・キシモト)

■オリンピック精神を体感したラシュワン選手との戦い

伊藤 本日はよろしくお願いいたします。まずは、お二人ともオリンピック、パラリンピックを経験されていますので、ご自身が出場された大会を含めて、オリンピック、パラリンピックというものを語っていただければと思います。最初に山下会長、出場されたロサンゼルスオリンピックでの経験を語っていただけますか?

山下会長 今の私の活動とつながる話をさせていただきたいと思います。私が小学校1年生のときに、1964年の東京オリンピックが開催されました。当時、熊本の田舎町で生活していたのですが、大会期間中はずっとテレビで日本代表選手団を応援していたんです。それで日の丸が揚がって、君が代が流れると、こめかみがジーンと来て、小学校1年生ながらに感動したという記憶がありますね。私が柔道を始めたのは小学校4年生で、柔道では結果をどんどん出して、中学校では全国大会などでも活躍するようになるんですけど、中学2年生のときに「将来の夢」という題の作文の中で、私は「大好きな柔道を一生懸命頑張ってオリンピックに出場して、メインポールに揚がった日の丸を仰ぎ見ながら君が代を聞く。それが私の夢です」と書いているんですね。もう一つ言いますと、「選手を終えた後は、柔道の素晴らしさを世界の人々に広めることができるような仕事がしたい」と書いているんですよ。

伊藤 中学2年生でそこまで書いているなんてすごいですね。

山下会長 ということはですね、その通りの人生を歩んできたんです。よく色々な人から「なぜ山下さんはオリンピックで勝てたんですか?」と聞かれたとき、私がいつも答えるのはやっぱり「夢の力」。東京オリンピックを小学校1年生のときに見て、柔道を始めて、こういう目標を持ってきた。最初は「オリンピックに出る」というのは夢ですよね。でも、一生懸命頑張っているうちに夢が目標になった。だから、本当に目標や夢を明確に持ち続けていくということは、自分の人生を実り多きものにしていくために大事なことなのかなと思います。

伊藤 そうですよね。そうした夢や目標を持ってオリンピックに行ったわけですからね。

山下会長 ですから、表彰台の一番高いところに上がって、中学2年生のときの夢が現実になったときに何を感じたかと言いますと、「自分は世界で一番幸せな人間なんじゃないかなぁ……」と思ったんです。それからもう一つ、私の今の活動につながっているところで言いますと、2回戦で右足のふくらはぎを肉離れしたんです。対戦したのは当時西ドイツの選手でした。それで、準決勝に臨む前にその西ドイツの選手が私の控室に入って来たんですよ。そして、ものすごく申し訳なさそうな顔をして「山下、お前が足を怪我したのは私のせいか?」と聞いてくるんです。だから、私は正直に「あなたはこの怪我に全く関係がない。全部自分が悪いのだから、何も心配しないで」と言ったら、彼はちょっとホッとした表情になって「足は痛いだろうけど、頑張ってくれよ」と言って去って行ったんです。

伊藤 そんなことがあったんですね。

山下会長 はい。決勝戦はエジプトのモハメド・ラシュワン選手と試合をして勝ちました。そして試合が終わって、ラシュワン選手は試合場から出てきたときに、世界中のマスコミから囲まれて「あれだけ足を痛めている選手に負けるはずがない。あの足を攻めていれば、あなたが勝っていたのでは?」と聞かれたんです。その際、これは私が人づてに聞いた話ですが、彼は非常に格好良かった。「私にはアラブ人としての誇りがある。そして私は柔道家だ。そんな卑怯な戦いはできない」と答えたというんです。それを聞いた周りの人たちはみんな拍手をして、次の日の海外の新聞ではラシュワン選手の戦いがいかにフェアだったかということが大きく報道されていました。
 また、表彰式でもこういうことがありました。今と違って昔は優勝者から先に表彰台に上がっていました。それだと2位、3位の選手が付け足しのようになってしまうから、今のように3位の選手から上がる方がいいと思いますが、私のときは金メダルを取った選手から表彰台に上がっていたんです。それで、私が足を引きずりながら表彰台に上がろうとしたときに、ラシュワン選手がスッと寄ってきて肩を貸してくれた。下りるときも彼は私に手を貸してくれた。その姿が本当にスポーツマンシップ。これこそがオリンピック精神の一つだということで、彼はその年の国際フェアプレー賞をもらうんですよ。

山下JOC会長×河合JPC委員長特別対談(前編)選手時代に体験したオリンピック・パラリンピック精神の本質
ファシリテーターを務めた伊藤華英さん(写真:フォート・キシモト)

■選手村ではリラックスすることが大事

伊藤 素晴らしいですね。まさしくオリンピックの価値そのものですよね。

山下会長 はい。また、少し選手村のことを話しますと、アジア大会とかオリンピック、ユースオリンピックなどで柔道は行われてきましたが、私にとっては柔道以外の日本代表選手団の皆さんと一緒に臨んで、世界各国の色々な競技の選手たちが一つの選手村で過ごすことに意義がありました。ロサンゼルス大会のときは現地の大学の学生寮にみんなで寝泊まりしていましたが、私がオリンピックの雰囲気を味わいたいと思ってよくやっていたことは、学生寮と言っても大きいですから、選手村の中を走っているバスに乗って「おぉ、これがオリンピックか、これが選手村か」と思いながら見て回りましたね。それで知った柔道選手を見つけると「おーい」と手を振りながらね(笑)。他の選手は試合に集中したいからと、あまり部屋から出たがらなかったみたいですけど。

伊藤 そんなことをされていたんですね。そういうことができる状況にいたというのが本当にすごいなと思います(笑)

山下会長 重要な試合になればなるほど、大事にしたことが自分のメンタル面、精神的な面をできるだけリラックスさせてやる。自分がくつろいで生き生きとする。練習や試合の調整で畳の上に行ったときには誰よりも集中しているけれど、それ以外はリラックスするんです。

伊藤 やっぱり切り替えが上手なんでしょうね。

山下会長 また、ステーキだとかハンバーグとかバーベキューも色々なところでやっているんですよ。そうすると、バスを降りて食べたりとか(笑)

伊藤 試合前なのにそんなことができるなんて、本当に素晴らしいと思います(笑)

山下会長 オリンピックは選手として1回の出場でしたけど、2年に1回の世界選手権なども含めて、好きだったのはホテルの近くの公園などに行って散歩したり、鳥のさえずりを聞きながら本を読んだり。グッと集中する代わりにリラックスする時間が好きでしたね。柔道の全日本監督時代にも、選手に生き生きと前向きに戦ってもらうためには、自分がまず生き生きとしなければいけない。ですから、毎日朝か夕方は選手村の中を走っていました。

伊藤 その姿を見たら、選手も落ち着くと思いますよ。

山下会長 アトランタオリンピックのときは、最初の4日間は金メダルがとれませんでした。それで「監督、気分転換にどこか外に出ましょうよ」と言われたんですけど、「いや、俺は明日に備えて、これから帰ってランニングする」と言ったんです。毎日走っていましたから。

伊藤 それが集中できる自分の時間になっていたんでしょうね。

山下会長 でも、結果的にその日の夜はみんなと一緒に外に出たんですよ。私自身は早く帰って明日に備えて体調ベストに整えようと思っていたんですが、「監督が選手村から出なくて、試合が終わったら毎日ホテルに帰っている。すごく思い詰めているんじゃないか」と、選手村に入れないスタッフが心配していると言うんです。「何言ってるんだ。俺、元気だよ!」って(笑)。もちろん、選手たちには自分の試合に集中してほしいですけど、ずっと気を張り詰めていると、かえってダメになるかもしれない。ですから、選手村を楽しんだり、やっぱり自分をリラックスしてあげてほしいですね。

伊藤 そうですね、ちょっと違うことを考えたりしてほしいですよね。

山下会長 私が常に大事にしたことは、夜寝るときに「今日は良い1日だったなぁ」と思って眠って、朝起きたときに「よーし、今日もやるぞ!」と。こういう1日を送れるようにすることを大事にしてきました。ですから、選手村の雰囲気を楽しんだり、くつろいだりすることも選手によっては良いことなのかなと思いますね。

伊藤 先輩のこの言葉は選手にとって大きな励みになりますね。そして、緊張しているときにあまりできないことをやっていますものね。

河合委員長 確かにそうですね(笑)。でも、僕も割と同じようなことをしていた方かもしれないです。

山下会長 柔道の選手たちでも、特に私が一番若くて世界選手権に出たときも、他の選手はほとんどホテルの部屋から出ないんですよ。ロサンゼルスオリンピックのときは私は年齢が上の方でしたので、私がそうするものだから周りの選手も出て行ったりしていましたけどね。

山下JOC会長×河合JPC委員長特別対談(前編)選手時代に体験したオリンピック・パラリンピック精神の本質
河合純一JPC委員長(写真:フォート・キシモト)

■大学時代に感じたパラスポーツ選手を取り巻く環境の変化

伊藤 本当に素晴らしいと思います。一方で、河合委員長はパラリンピックに6回も出場しています。

河合委員長 そうですね。初めて出場したのはバルセロナ大会。17歳のときでした。

伊藤 若い!

河合委員長 先ほどの山下会長のお話ですが、ロサンゼルス大会で優勝されたシーンなど、僕はまだ目が見えていたころでしたから、よく覚えているんです。9歳でしたが、そのときのオリンピックの記憶が、僕の記憶の中での最初のオリンピックでした。

山下会長 そうだったんですね。

河合委員長 はい。その次がソウルの鈴木大地さん、今は日本水連の会長ですね。13歳のときで、それぐらいのころが目の見えていた最後でしたね。15歳のときに失明して目が見えなくなり、水泳は5歳からやっていましたが、そのまま東京の筑波大学付属盲学校に進学して、16歳のときに国内の大会で優勝しました。その結果、「翌年にパラリンピックがあるんだけど、選考会に出てみないか」と声をかけられて、そのまま選考されて翌年にパラリンピックに行ったという、今思うとトントン拍子だったんですよね。ですから、心の準備とか全然なくて、自分で世界を目指そうとか、そういう覚悟とかを持つ前に「楽しそう」みたいな感じですよね。それで高校2年生のときにバルセロナ大会に出場して、パラリンピックの前にオリンピックで岩崎恭子ちゃんが金メダルをとりましたよね。

山下会長 そうそう、そうでした。

河合委員長 その岩崎恭子ちゃんが泳いだプールと同じ場所で泳げるというだけで、すごく嬉しかったですね。ただ、その大会では銀メダル、銅メダルをとり、金メダルをとれなかったことが、その後の一つのきっかけになりました。また、僕は柔道の谷亮子さんと同い年なんです。

山下会長 なるほど。ということはお互いに銀メダルだったわけですね。

河合委員長 はい。そういうこともあって「次こそは!」という思いを自分の中では勝手に共有していましたね。そうした中で大学に進学して、早稲田大学に行ったんですが、そこでやっぱりオリンピック選手たちが練習している部活動に、最初は入れてもらえない状況がありました。ですが、自分が練習して結果を出していったことによって理解者が増えて、一緒に練習できたり合宿に行く環境が生まれていきました。アトランタ大会の前だったのですが、当時はそうした変化をすごく感じていましたね。一方で、その当時は練習の水着なども1枚しかもらえなかったんです。

伊藤 それはパラリンピック本番でもですか? 足りないですよね?

河合委員長 はい、普通は足りないです。でも、それが当たり前だった時代で、そうした経験を聞いたオリンピアンの先輩たちが、それこそ気を遣って水着とかゴーグルとかキャップを買ってくれたり、また、一緒に練習したり、ご飯を食べたり、そういうことをすごくしてくれる先輩方に支えてもらっていたんです。やっぱり、オリンピックに出る選手って、「人間的に」というとすごく変ですけど、超一流と一流は違うなと、まざまざと見せつけられました。そうしたことを通じて、自分の中でアスリートとして、オリンピックとパラリンピックは同じだと思っているんだったら、それだけの価値がある努力とか練習をやらなければならないんだということを教えてもらった大学時代でした。

伊藤 一緒に練習できる環境というのがきっかけですよね。

河合委員長 そうです。90年代当時は、変な話ですが、水泳部で女子の選手が一緒に泳ぐということも大学スポーツ界ではまだまだ浸透していなかった時代なんですよ。

山下会長 え? 本当ですか?

河合委員長 はい、特に強豪校では。そういう時代だったことを思うと、OB会からすれば「障がいのある選手を一緒に泳がすなんて何事か!」みたいな、最初はそういう状況だったと思います。でも、監督も理解をしてくれて「こういう泳ぎ方をすれば、もっと速くなると思うよ」と指導に乗り気になってくれましたし、オーストラリアの合宿にも連れて行ってくれました。そうすると、オーストラリアではコーチたちが普通にパラの選手たちを指導しているんです。

伊藤 オーストラリアは当時からそうでしたよね。

河合委員長 すでに2000年のシドニー大会の開催が決まっていたからなおさらだったんだと思いますけど、当時、AIS(オーストラリア国立スポーツ研究所)はオリパラ一緒にスタートしていましたから、そうした状況をまざまざと見せつけられましたね。なおかつ、そういう環境があったことで、スポーツの良さ、自分は水泳ですが、水の中に入れば障がいがあるとかないとかではなく、速く泳ぐためにみんな頑張っているんだからさ、という本質的な話ですよね。小学生がタイムを1秒縮めようと頑張ることと、オリンピックやパラリンピックを目指す選手が1秒縮めようと頑張ることへの気持ちは一緒だとすごく思っているんです。そうしたことを気づかせてくれたのは、そのころの経験が大きかったからだと思いますね。

山下JOC会長×河合JPC委員長特別対談(前編)選手時代に体験したオリンピック・パラリンピック精神の本質
(写真:フォート・キシモト)

■自分のためだけにスポーツをするのではないと金メダルが教えてくれた

伊藤 そこからアトランタ、シドニーと連続で出場していきましたよね。

河合委員長 アテネまで含めたこの3大会で、僕は金メダルをとって3連覇できたんですが、同じ種目でできたことは自分の中でもある意味、運が良かったなとも思いますね。でも、その頃にそれだけの記録を出せたのは、色々な方々の応援とか支えを自分の力に変える方法をアトランタで気づけたからかなと思うんですよ。先ほど山下会長がおっしゃっていたように、自分が表彰台に立ったときは世界で自分だけが幸せを独り占めできる瞬間が訪れるだろうと、僕も思い込んでいたんです。

伊藤 実際に表彰台に立った人にしか分からないですものね。

河合委員長 そうなんですよ。でも、立ってみたときに思ったことは、自分はもちろん世界一のアスリートとして、選手としての喜びは感じられましたが、自分を教えてくれたコーチ、家族、仲間も“世界一の選手を支えたという世界一”だということでした。そうしたことを感じたときに、自分でももっと頑張れそうだ、自分のためだけにスポーツをするんじゃないんだなと思いましたし、そのことを金メダルが教えてくれましたね。ですから、すごくそこはスポーツに救われたと言いますか、たぶん、競技を続けられる大きな原動力になったと思います。

伊藤 そうですよね。やっぱりスポーツの大会があると、どうしても選手ばかりにフォーカスが当たります。もちろん、選手がいなければ会場が華やぐことはないと思いますが、河合委員長、山下会長のように、たくさんの支えてくれた人たちにも「同じ気持ちでいるんだよ」ということを伝えられたらいいですよね。

河合委員長 今回の東京大会でそういうことも含めて、たくさん伝わっていくといいなと思いますよね。

後編へ続く

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