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トップアスリートインタビュー

早田卓次選手(体操)
Photo:フォート・キシモト
東京オリンピックを振り返って 早田卓次選手
東京オリンピックの体操競技の団体とつり輪で金メダルを獲得した早田さんが、「打倒ソ連」を目指して取り組んだ練習の日々、周囲への感謝の思いを明かしました。

 日本代表選手の6名に残った時は“やれるかな”という不安感が大きかったです。なにしろローマ大会から連続出場をする選手が4人、ヤマシタ跳びの山下(現・松田)選手、そして名もない私という6人でしたから、喜びもあるけれど、迷惑をかけずにチームの一員として役割が果たせるかという不安がありました。

 その不安を解消するために、毎日かなり練習をしました。朝起きると、まずロシア語でザリアツカ(充電トレーニング)という、1日に必要な刺激を身体に呼び起こす運動を1時間。これをしないと体操が上手くならない、ソ連に勝てないとコーチに言われていました。次に本トレーニングが3時間、その後筋力トレーニングをしました。当時筋肉トレーニングは足りないところを補うための補強と考えられていました。さらに就寝前に逆立ちで腕の曲げ伸ばしを20回位行っていました。もちろん風呂上がりにはマッサージをしました。トレーナーはいませんから自分で薬を塗ったり、湿布材を貼ったりという程度ですが。

 私はウエイトの調整が大変でした。体操のためには57.5kg、日常生活には59〜60kgがちょうどいい。2.5kgの差を調整するのが一苦労でした。夜寝るまでは60kgでいたいけれど、朝起きた時は体操のための体重でいたいから、毎朝ザリアツカやランニングやサウナで汗出しをしました。今でもその習慣が残っています。

 コーチには日本人的な正確性、姿勢作り、美しく見せるためにどうするか、腕や足の伸ばし方、身体の屈伸などをかなり指導されました。
試合の時には自分でオープンリールの8ミリ映写機をバッグの中にいつも入れて持ち歩いて撮っていました。高価なものでしたが映写機も編集機も持っていました。お小遣いを節約し、食べたいものを我慢してでもこれらの機械は持っていないと一流選手といえないと思っていました。

 合宿は3食付きだから、何の心配もなく腹一杯食べられて充分に練習ができましたが、普段は経済的に余裕がなく、やっと練習をしていました。試合が近づくと、学校の保健室でビタミン剤を注射して栄養補給をしたこともありました。
あの頃の学生は生活に困ってせいぜい飲めるのは水、というのが結構いました。だから合宿は嬉しかったですね。

 東京大会の競技用ユニフォームはウールだったので、汗をかくとかなり重かったですし、温度によっては洗濯で縮む、置いておくと虫が喰う、と、扱いに注意が必要でした。当時はゆか運動も長いパンツでした。

 自分の大会出番の直前には、練習でやりたいことはすべてやってきたので、失敗のことは全く考えなかったですね。身体も軽いので大丈夫だ、と思うようになっていました。

 開会式がどんなものか、予備知識もなく競技場に入ったらすごい数の人が客席にいるでしょう、あの国立競技場が満員になっているなんて想像もできませんでした。興奮状態の歓声が聞こえ、いったい何が起こっているのか分からなくて、一瞬パニックになりました。その時、なるほど“あがり”というのはこういうことかと納得しました。この開会式を経験してオリンピックに対する意識が変わりました。閉会式はいい結果を残せていたのでまったくお祭り気分でしたが、女子大生がたいまつを持って円陣を組んだ演出には本当にびっくりさせられました。意表を突かれた演出で、今でも鮮明に覚えています。

 胆石を患っていた父がオリンピックを見に行きたいといい、念のために手術を受けたのですが、手術に失敗して7月29日に亡くなってしまいました。試合会場へは母と大学の仲間や先輩が見に来てくれていました。かなり周りの人が応援してくれて私の演技を盛り上げてくれ、感謝しています。母校の中学校はクラス単位にシーツに寄せ書きをして選手村に届けてくれました。いまでも大切に保管してあります。その中に、表彰台の1番に私が立っていて、その上につり輪の絵を描いた子がいました。もらったのは試合前ですから、私自身つり輪でいい成績が出せるなんて、ましてそれが金メダルだなんて想像も出来なかった時に、1人の中学生が描いていたのは驚きでした。その子ももう52歳位になっている(笑)。
私が金メダルを獲った日に、地元ではちょうちん行列があったと聞いています。オープンカーのパレードもしました。

 ぼくたちが子どものころは水汲みや雑巾がけなど、日常生活のなかに運動の要素がありました。今は求めてトレーニングをしないとならない。これは40年の間に変化した大きな違いでしょうね。

早田卓次選手(体操)
・早田卓次 はやた・たくじ
 1940年10月10日和歌山県田辺市生まれ。田辺高から日大に進み、1964年東京大会では体操男子団体と男子つり輪で金メダルを獲得。1968年メキシコシティ大会にも出場。日本オリンピアンズ協会の理事長などを務める。

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