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「追悼 和田勇さんの思い出」
〜古橋廣之進(日本オリンピック委員会顧問、日 本水泳連盟会長)


 戦後の日本スポーツ界の発展の礎を築いたフレッド・和田勇さんが、2月12日に93歳で亡くなった。1949年の全米水泳選手権出場をきっかけに和田さんと出会った古橋廣之進氏に、和田さんとの思い出を聞いた。



 和田さんは、スポーツ界のみならず、学術界・財界などの幅広い分野で日本とアメリカ、特に西海岸の日系社会との架け橋になられた方です。2月17日にロサンゼルスで行われた葬儀に列席しました。会堂に列席された方だけで1000人にも上り、生前の和田さんが果たされた役割の大きさを改めて実感しました。日系人高齢者のために二つの福祉ホームを完成させるなど、日系人社会だけでなく、アメリカの西海岸社会でとても人気がある、非常に信望の厚い方でした。それでいて、我々が派手に歓迎される場面では、陰でそっとご覧になっている方でした。和田さんの死を惜しむ多くの方の弔辞にも、そのことが表れていました。

 最初にお目にかかったのは1949年、日本水泳チームの戦後初の海外遠征だった全米水泳選手権のときでした。当時は、日本水泳連盟が国際水泳連盟に復帰したばかり、51年の講和条約前の占領下のことでした。当時の連合国軍最高司令官マッカーサー元帥を訪ねてパスポートとビザの発給を受け、我々選手6名は飛行機でハワイなど三つの島を経由してロサンゼルスへと向かいました。

 全米体育協会から招きを受けて旅立ったのですが、現地での受け入れは日系人の商工会議所が窓口になってくれました。渡航にあたって問題になったのは宿舎の確保でした。ホテルに泊まることもできたわけですが、日本人に対する感情は険悪なものがあり、どのような危害を受けるかも分からないということでした。そのときに和田さんがご自宅を提供してくださったわけです。

 戦時中、日系人はアメリカ国内で抑留されており、当時は大きな自宅を構えている人などいませんでした。その中で和田さんは、ユタ州で農地を開墾して農園を経営していたために抑留を免れたと聞いています。戦後いち早くロサンゼルスにもどり、野菜や果物を中心に扱う17ものスーパーマーケットを経営し、高級住宅地に日本人でただ一人、立派な邸宅を構えていました。

 和田さんは朝4時に起きて市場での仕入れを済ませ、我々が朝食をとるころには自宅に帰られて「元気か、困っていることはないか」などと、気軽に声をかけていただきました。練習に行くにも、試合に行くにも、立派なキャデラックを和田さんが運転し、送り迎えをしてくださいました。食事も本当に豪華なもので、ビフテキやフルーツなど、食べたことがないようなものがたくさん振る舞われました。88歳で現在もお元気な正子夫人ともども、家族ぐるみでお世話をしていただきました。

 全米水泳選手権の最初の種目は1500mでしたが、私は同じ組で泳いだ2位の選手を180mも離してゴールしました。記録は、大幅な世界新記録でした。そのことは新聞でも大きく報道され、それまでは我々のことを「ジャップ」と蔑んで書いていた新聞が、翌日からは「ジャパニーズ」になりました。ザ・フライングフィッシュ・オブ・フジヤマという言葉が出たのもこのときでした。

 和田さんもこのことを非常に喜んでくださり、その後も会うたびに「アメリカで君の名を知らない人はいないよ。君たちのおかげで、日本は大した国だということがアメリカ社会に認知された」とおっしゃっていただきました。スポーツというのは、本当に大きな力を持つものだと、そのときに感じました。

 その後、1964年のオリンピックを東京に招致するために、和田さんは正子夫人とともに中南米を精力的にまわり、全くのボランティアで招致の実現に貢献されました。オリンピックを東京で開催することで、日本も近代国家として再スタートすることができるという思いが、強かったのだと思います。

 こうして振り返っても、和田さんが戦後の日本のスポーツ界の発展に果たされた役割ははかり知れません。我々は、かけがえのない人を失いました。いま、感謝の気持ちとともに、ご冥福をお祈りする気持ちでいっぱいです。(談)

オリンピアン2001年4月号掲載 構成/石井信