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オリンピズムってなんだろう

第4回 クーベルタン男爵とオリンピック憲章の成り立ち

クーベルタンが目指したもの

でも、オリンピックを始めるなんて、ものすごく大変なことでしょう? クーベルタンさん一人でできたのかしら。
もちろん、協力してくれる人は必要だったさ。でも、そういう人たちを見つけて説得する作業は、クーベルタンがほとんど一人でこなしたそうなんだよ。クーベルタンは貴族だったから、力を貸してくれそうなえらい人、たとえば、皇室の人や政治家、大学教授たちにどんどん会ったり、手紙を送ったりすることができたんだ。ちなみに、クーベルタンはとても筆まめな人で、秘書も雇わずに、膨大な量の手紙を書いたといわれているんだよ。
へぇ、Eメールはまだない時代だよね?
もちろんないさ。全部手書きだよ。
クーベルタンさん、すごいね。
クーベルタンはとても明るい性格の人で、そういう人たちの集まりでも人気者だったそうなんだ。ちょっと話はそれるけど、クーベルタンはオリンピックを復活させただけではなく、いろんな意味でアイデアマンだったんだよ。独自のスポーツ理論を考えたり、自分で新しいスポーツを考案したりもしたんだ。
へぇ、どんなスポーツ?
たとえば、馬上フェンシングとか、馬上ボクシングとか……。
馬上ボクシング?! どうやってやるんだろう……。
それは、お父さんもよくわからないんだ……。
とにかく、クーベルタンの精力的な働きかけのおかげで、1894年にパリで開かれた国際会議で、オリンピックの復活と国際オリンピック委員会の設立が決まった。そして2年後の1896年、第1回オリンピック競技大会がギリシャのアテネで開催されたんだ。どのくらいの国が参加したと思う?
うーん、最初だから、5カ国くらい?
実は、14カ国から241人もの選手が参加したんだ。競技場に詰めかけた大観衆は、世界各国から集まった選手たちがスポーツで競う姿にとても感動し、大会は大成功を収めたんだ。
よかったー。クーベルタンさんもホッとしたでしょうね。
そうだね。実際にオリンピックを開催してみて、クーベルタンは、不安定な時代にあって、オリンピックが世界の平和に役立つものであることを改めて確信するんだ。大会のすぐあと、クーベルタンは雑誌に発表した記事の中でこんなことを書いている。

今さまざまな民族同士を切り離している諸々の偏見を乗り越えてしまうまで、私たちは平和を手にすることはできないだろう。この目的に到達するため、あらゆる国の若者が周期的に集まって、筋肉の強さと鋭敏さとを友好的に試してみること以上にすぐれた方法は、他にあるだろうか。(「一八九六年のオリンピック競技大会」より)
スポーツが平和をもたらす……それは、オリンピック憲章の根本原則にも書いてあることだよね。
その通り。クーベルタンは3年後の1899年、「国際オリンピック委員会規則」というものを書いたんだけど、これが、いまのオリンピック憲章にあるオリンピズムの根本原則の最初のものなんだ。そこには、IOCが責任を持ってオリンピック競技大会を発展させること、オリンピックを定期的に開催して人々に高い理想を抱かせ続けること、といったことが書かれていたんだ。
クーベルタンさんは、平和に役立つオリンピックが、1回だけで終わらず長く続くことを願ったのね。
そうだよ。クーベルタンは、近代オリンピックの創始者としてみんなに知られているけれど、彼が人生を通して取り組んだのは、個人の自由を尊重すること、そして、すぐれた意思と肉体を持った人間を育てる、ということだったんだ。その2つへの答えが、彼にとっては「スポーツ」だったんだよ。
つづく・・・次回は時代とともに変わるオリンピック憲章について学びます