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2021.11.25 その他競技情報

三宅宏実選手が引退会見「21年間、すごく幸せな時間でした」

三宅宏実選手が引退会見「21年間、すごく幸せな時間でした」
三宅宏実選手が引退会見(写真:フォート・キシモト)
三宅宏実選手が引退会見「21年間、すごく幸せな時間でした」
山下泰裕JOC会長から花束と労いの言葉が贈られた(写真:フォート・キシモト)

 JOCシンボルアスリートの三宅宏実選手(ウエイトリフティング)が18日、東京都新宿区のJAPAN SPORT OLYMPIC SQUAREで引退記者会見を開きました。

 三宅選手は2004年アテネオリンピックから東京2020大会まで5大会連続で夏季オリンピックに出場し、2012年ロンドンオリンピックで銀メダル、2016年リオデジャネイロオリンピックで銅メダルを獲得。また、2015年より6年間に渡り、JOCシンボルアスリートとしてオリンピックコンサートへの登壇やインテグリティー教育事業の講師を務めるなど、日本オリンピック委員会(JOC)主催の各種オリンピックムーブメントへの推進事業に積極的に参加し、オリンピズムやオリンピックバリューを幅広く伝えてきました。

 最初に、山下泰裕JOC会長から三宅選手に労いの言葉とともに花束を贈呈。続いて、日本ウエイトリフティング協会の小宮山哲雄専務理事からも花束が贈られ、小宮山専務理事は三宅選手の功績や人柄を表すエピソードを交えつつ「三宅選手のような選手がこれからも出てほしいと、私たち協会も思っております。三宅選手、今後はコーチとして後輩の指導をぜひお願いします。ご苦労様でした」と、指導者としての活躍にも期待を寄せるメッセージを述べました。

三宅宏実選手が引退会見「21年間、すごく幸せな時間でした」
21年間の現役生活を振り返り「練習することがとても楽しかったです」と語った三宅選手(写真:フォート・キシモト)
三宅宏実選手が引退会見「21年間、すごく幸せな時間でした」
東京2020大会が現役選手として最後の舞台となった(写真:フォート・キシモト)

 会見で三宅選手はまず、この日をもって正式に引退を発表するに至り、JOC、スポンサー、所属企業、メディア、ファンなど、21年間の現役選手生活を支えてくれた方々へ感謝の言葉を述べました。続けて、2000年シドニーオリンピックを見たことをきっかけに競技を始めるにあたり、父であり1968年メキシコシティオリンピック銅メダルの三宅義行さんから「オリンピックでメダルをとること」「途中で絶対に諦めないこと」の2つの約束をしたこと、ウエイトリフティングを通して初めて夢を持つことができたこと、シャフトを初めて持ち上げたときに感じた重さを今でも鮮明に覚えていることなどを振り返り、「ウエイトリフティングは記録の競技なので、結果が数字で表れるからこそやりがいがある。また、自分の限界に挑戦し、記録を更新できるとうれしく、練習することがとても楽しかったです」と、これまでの思い出を語りました。また、その中で21年間をともに歩み、支え、2つのメダルへと導いてくれた父であり監督の義行さんに改めて感謝の言葉を添えました。

 リオ大会から東京2020大会までの5年間は「怪我も治らず、記録の低下からもうダメかなと思うことが何度もありましたが、家族の支えはもちろん、チームメートや私に関わってくださった全ての人たちの応援が支えとなり、頑張り続ける原動力になりました」と語った三宅選手。引退後の人生について「これからは重たいものを持ち上げることはできませんが、思考や技術は磨き続けられると思いますので、東京2020大会の課題を次のステージで活かせるようさらなるチャレンジをしていきたいと思っております」と述べ、今後は所属企業のウエイトリフティング部のコーチとして活動することを報告しました。

 最後に、三宅選手は改めて「この21年間、ウエイトリフティングに夢中になり、その大好きな競技を長く続けることができ、幸せな競技人生を送ることができました」と、ウエイトリフティング選手として充実した現役生活だったことを振り返るとともに、「現役選手としては引退しますが、次のステージで新しいことにチャレンジしてこれからも頑張っていきたいと思いますので、今後ともよろしくお願いいたします。本日は最後までありがとうございました」と締めくくりました。

 続いて、報道陣との質疑応答が行われました。

三宅宏実選手が引退会見「21年間、すごく幸せな時間でした」
「選手としてピークだった」というロンドン大会で銀メダルを獲得(写真:アフロスポーツ)
三宅宏実選手が引退会見「21年間、すごく幸せな時間でした」
銅メダルを獲得したリオデジャネイロ大会は試技後にバーベルを抱擁したシーンが話題となった(写真:アフロスポーツ)

■三宅選手「時間を忘れ、競技に無我夢中になれた」

――改めて、オリンピックの舞台は三宅選手にとってどのような舞台でしたか?

 ちょっと難しいですね……(笑)。オリンピックの舞台から夢をもらったところからスタートしその舞台に立つ度に、もう一度出場したいと思わせてくれる舞台でした。長い人生の中では、私にとってオリンピックは通過点なのかなと思いますが、貴重な経験ができて良かったなと思います。

――21年間の競技生活を振り返ったときに、自分でここは褒めてもいいかなと思うことがありましたら教えてください。

 私は結構飽き症なので何事も続かないんですけど、唯一ウエイトリフティングには飽きずに21年間継続して取り組むことができ、一番よく頑張ったかなと思うところです(笑)。

――引退を決めた瞬間はいつだったのでしょうか。

 もし東京2020大会がなかったらリオで引退をしていたと思うんですけど、4年先に東京でオリンピックが開催されることになって頑張ってみようかなと思ってチャレンジをすることにしました。東京2020大会を機に、現役を引退しようと決めていたのですが、東京2020大会が無観客開催でしたし、今年11月に全日本女子選抜ウエイトリフティング選手権大会がありましたので、最後に競技している姿を見ていただけたらという思いもあったのですが大会が中止になってしまい、監督(義行さん)も私の体力の限界が来ていることを分かっていましたので、話し合いの末、このような場を作っていただきました。

――引退を義行さんにお伝えしたとき、どのような言葉をかけられましたか?

 そうですね、あまり多くを語らない監督ですので、すぐには言葉が思い浮かばないですが、いつもと変わらなかったように思います。「じゃあ、次はどうしようか」とか、穏やかな会話だったと思います。

――昨年、腰の疲労骨折があり、かなり苦しい時期があったと思いますが、東京2020大会への思いが揺らぐことはなかったのでしょうか。

 2020年の1月、2月までずっと腰が痛かったので、不安な気持ちの方が大きくて、取材に答えるのも精神的につらいなと思う時期がありました。でも、自分自身で「逃げ出さない、諦めない」という条件で始めた競技なのでどんな結末でも最後までやり切りたいという、前向きな気持ちもありました。

――三宅家として2つの東京大会をつないだ意義についてはどのようにお考えでしょうか。

 伯父(三宅義信さん/東京1964大会で金メダル)の1964年から自分の2021年まで、多くの方々にウエイトリフティングという競技を知っていただけたということは私自身非常に嬉しく、この先もウエイトリフティングにより多くの人に興味を持ってほしいと思っておりますので、これからの選手の活躍に期待していますし、私自身もできることがあれば全力でサポートしたいと考えております。

――先ほど、思考と技術はまだまだ発展していくとおっしゃられていました。今後はコーチをしていく中で、ご自身でも技術を追及していくということでしょうか。

 シャフトだけで15kgあるんですが、それを完ぺきに持つことはすごく難しいことで、それができないままもっと重さのあるものを持っても良いフォームで挙げることはできません。自分の中での課題をこれからも追及して、一緒に高め合いながら成長し、後輩の課題を解決できるような指導ができたらいいなと思います。

――改めて21年間続けてこられたウエイトリフティングの魅力と、今後指導者としてどのような選手を育てていきたいかを教えてください。

 ウエイトリフティングは重たいものを持ち上げる世界ですので、重たいものを持ち上げているときが一番楽しいです(笑)。記録が数値として出て、結果がすぐに分かるので、どれだけ強くなったか目に見えて分かりますし、それによって新たな目標を設定できます。そのウエイトリフティングの魅力に取りつかれ、時間を忘れるほど競技に夢中になることができました。
 2つ目の質問についてですが、今は所属の選手たちが1kgでも2kgでも重い重量を挙げられるように、そして私もたくさん怪我をしてきたので、まずはそのサポートができるようにしていきたいです。新しいこともしっかり勉強していきながら選手のサポートの幅を広げることができればと思っております。

三宅宏実選手が引退会見「21年間、すごく幸せな時間でした」
今後は指導者として「選手と一緒に高め合いながら成長していきたい」(写真:フォート・キシモト)
三宅宏実選手が引退会見「21年間、すごく幸せな時間でした」
引退会見を開いた11月18日は三宅選手の誕生日、父であり指導者である義行さんと記念撮影(写真:フォート・キシモト)

――引退されて色々なことにチャレンジされていると思いますが、その中で新鮮だと感じているものがあれば教えていただけますか。

 引退した後に最初に向かった先は、英会話スクールでした(笑)。また、車の免許もずっと取れなかったので、合宿に通って、最近ですが免許もようやく取ることができたことが最近では一番新鮮な出来事でした。

――先ほど三宅家に関するお話が出ましたが、競技を21年間続けていく中でプレッシャーや重圧などはあったのでしょうか。

 その瞬間、その瞬間においてはものすごい重圧やプレッシャーは感じていたと思います。でも、それがあったからこそ新鮮な気持ちで毎回チャレンジすることができましたし、父や伯父を早く超えたいなというモチベーションにも繋がりました。

――アスリートとして、ご自身で最も充実したと感じた瞬間がありましたら教えてください。

 最も選手としてピークだった時期がロンドンオリンピックになるんですが、前年の2011年に日本記録を更新したときは、ゾーンに入ったと言いますか、ウエイトリフティングはこういう身体の使い方をして持ち上げるんだなという感覚を覚えて、記録を出した瞬間は重さを感じませんでした。そこから10年、そのゾーンはもう戻ってこなかったんですけど(笑)、その感覚は今でも覚えています。

――昨年からコロナ禍があり、また怪我もあって苦しい時期だったと思いますが、引退までのラスト1年でどのようなもの、思いを得られましたか。

 この1年間は多くの皆さんにとって大変な時期だったと思いますが、その中で大切なものを見つけたと言いますか、コロナ禍で人と会えない、会話ができないといったことが今、緩和されたときに、やはり人と会える喜びや、この会見のようにコミュニケーションがとれるということ、人と人とのつながりの大切さを改めて知ることができました。また、一人の力は本当に微力ですので、自分がここまで競技を続けてこられたのは本当に人の支えがあったからこそだと思います。これからもまた色々な人たちにご指導をいただきながら、次のステージに進んでいきたいなと思いました。

――後進の指導に関して、三宅選手のように長いキャリアを築いていきたいと考えている女性アスリートもいると思います。女性アスリートのキャリアについて、どのように考えていて、自分の経験をどう生かしていきたいと考えているかを教えてください。

 ちょっと難しいですね(笑)。私も36歳まで競技を長く続けることができて、やはり体にダメージが残っているところもあるんですけど、選手寿命、選手生活も年々長くなってきているので、周りの支えによって、女性が30代以降でも、例えば結婚をして子供ができたとしても活躍できるような形ができていけばと考えております。

――三宅選手はご自身のことを大学院で研究されていたと思うのですが、改めてどのような研究をされていたかということと、そのことによって新たに発見できたこと、後進の指導に役立ちそうなことがあれば教えてください。

 オリンピック4大会における自分自身をテーマに論文を書かせていただいたのですが、心技体の心の部分が体力や技術にどれだけ関連しているかについて考えさせられました。自分のことを客観視するのは難しいことだったのですが、やはり最大のピークは26、27歳、競技を始めて10年経ったときのロンドンオリンピックで、ピークの曲線は山のような軌道を描いていて、リオの後にもうひと山、来てくれるかなと期待していたのですが、その後高校2年生ぐらいの記録にまで下がってしまったので、やっぱりこれが限界だったんだなと。ですので、選手がピークのころにしっかりと記録を出すことができるような指導をしていきたいなと思っています。かつ、その後も継続するためには試合数を選んだりとか、体のことを考えたりしながら選手に寄り添い、自分がやってきたことを生かしつつ、その選手に合ったものを選択肢として広げられたらいいのかなと思っています。

――今日(11月18日)は三宅選手のお誕生日ですが、この日を会見に選んだ理由を教えてください。

 聞かれるんじゃないかなと思っていました(笑)。本当でしたらもう少し早い時期にと思っていたんですが、本当に今日を狙ったわけではなく、大安の日ということでもありましたので、色々な方にご相談をさせていただいた結果、たまたまこの日に決まりました。誕生日という、一つ年を重ねる日にけじめをつける場を設けさせていただいて、いいスタートを切ることができればと思います。

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