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ジュニア作文オリンピック

「フェア」であること

静岡県立藤枝東高等学校1年 松浦翔

最近、スポーツ界の「黒い話題」が報道され、世間の注目を集めている。ドーピングによる金メダル剥奪、メジャーリーガーの薬物告白本、審判員買収…。これらはみなフェアプレーの精神に大きな影響を与えるものであり、看過できるものではない。では何が「アンフェア」だったのだろうか。僕はその理由を、自分自身の経験から考えてみた。
僕は中学のとき、部活で卓球をしていた。部長も務め、ある程度の充実感があった。しかし実力の面では、どこか満ち足らないものがあった。「頑張れば何とかなる」と言うけれど、思い通りにいかず、練習をするたびに、よく一人で悩んでいた。
ところがである。そんな自分も、楽しみにしている日があった。公式戦、つまり大会の日である。大会とは自分の限界への挑戦でもある。会場にいる選手全員が、全力のプレーを心掛ける。これはごく普通の事かも知れないが、僕はこの雰囲気が大好きだった。そこにいるだけで、力が湧いてくる、といった感じだ。
「僕も全力を尽くし、いい試合をしよう。」
気分もよく、やる気が出てくる。そして、試合が良い結果でなくても、
「相手も自分も良いプレーが出来た。卓球をやってて良かった。」
という充実感があり、明日の自分につながっていく感じがした。
これだけではない。三年生の最後の大会で、後輩からもらった色紙に、「先輩のようなプレーヤーになれるように頑張りたいです。」という言葉があった。今まで努力してきて良かった、と改めて実感した。
この充実感こそが、フェアプレーのもたらすものではないだろうか。これは人種や国境に関係なく、世界共通のものであるはずだ。
こう考えると、冒頭で挙げた例は、行為そのものに問題があるのではなく、選手の心のあり方が重要になってくるのだと思う。スポーツをする者としての喜び、つまり充実感を享受できていないのだ。心を養うことも、スポーツなのだと思う。
全ての選手がフェアな姿勢でスポーツに向き合い、かけがえのない充実感を共有してほしいと思う。

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