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ジュニア作文オリンピック

心の鬼

東京都・安田学園高等学校3年 小垣卓馬

『鬼の形相』傷だらけの大横綱貴乃花。体はもう、限界だった。崖っ縁の大一番で眠りから覚めた『鬼』。思いは時に『鬼』と化す。私は見た、親友が変わるその瞬間を。
小学校の大親友が力士になった。その日から国技館での応援は私の習慣になっている。四股名は佐田の海。元小結の父親の名を受け継いだ二世力士である。
初場所千秋楽、番付を上げていた佐田の海は三勝三敗。三段目昇進に王手を掛ける大一番だ。早朝の国技館。土俵上にはまるで北風が吹いているかのような緊張感を感じる。取組も残り五番となった。その時「ニシーサダノウミ。」呼び出しの声が掛かる。佐田の海のしなやかな仕切。私はいつもそれに見とれてしまう。しかし、この日は違っていた。土俵に上がり淡々と仕切を行うが、明らかに表情は強張り、手足は硬くなっている。「勝てない……」弱気な言葉が私の頭を過ぎる。静寂が土俵を包む中、行司が時間を告げた「ハッケヨーイ、ノコッタ。」両者とも頭からぶつかっていく。「パン!」という物凄い音。相手の鋭い押し。ズルズルと後退する佐田の海。必死に相手の体勢を起こそうとするがびくともしない。迫る土俵際。とうとう俵に足が掛かった。
「サダノウミー!」
土俵周りから甲高い声援が飛んだ。そのときである。気力を失いかけていた彼の目が突然ギラッと開き、獣のように鋭くなった。歯をくいしばり、身体にグッと力が入る。脚の筋肉は盛り上がり、真っ赤な血管が浮き出ている。相手力士はその圧力からバランスを崩し倒れ込む。「ドスッ!」土俵下に落ちる両者。土俵上には観客のどよめく声だけが残った。数秒の間があっただろうか、行司の軍配が西方力士を指している。「勝った」私は思わず座席から飛び上がり、こぶしを突き上げていた。土俵下から身体半分にべっとりと土を付け起き上がった彼の表情。そこには気迫が満ち溢れ、まさに『鬼』そのものだった。
その瞬間、私は以前、彼と交わした言葉を思い出していた。
「この四股名、本当はいやだったんだ。」
友人の意外な一言に耳を疑った。私は、彼が父の名を受け継ぐということを当たり前のように考えていた。だが、
「オレには荷が重すぎる。」
その一言を口にすると、唇を噛み締め黙り込んでしまった。そして、窓の外に広がる遠くの空をじっと見つめていた。混じりっけのない透き通った眼差しからプライドに裏打ちされた責任と熱意がにじみ出ていた。
二世力士であればこそ角界の厳しさは充分に承知しているだろう。それでも彼は父親の勇姿に憧れて迷わずこの世界に飛び込んだ。「父の名を汚してはならない」鋭い視線が見つめる先には父親の姿が映っていたのではないだろうか。私は確信した、あの『鬼』は弱気な彼自身に打ち勝ったのだ。と。

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