国立スポーツ科学センター/コンディショニング成功・失敗要因研究プロジェクト 齋藤実
4年に1度のオリンピックには、数十年にわたる選手やコーチ、スタッフの努力が、数分間の時間に注ぎ込まれ、会場では数万人の眼が注目し、テレビでは数億人が観戦し、世界各国の数十億人が自国選手の結果に一喜一憂する空間がそこにはある。「オリンピックは参加した者しかわからない」と言われる理由はここにあるが、もし参加した選手やコーチ、スタッフから、特殊な空間での取り組みや成功事例、失敗事例、そのノウハウを聞くことができれば、後から続く者にとって力になることは間違いない。実際に、国際レベルでの成功のために、相互の資源を活用しようという動きは、国際的にもみられるようになった。AIS(オーストラリアスポーツ研究所)からは、現在の世界チャンピオンと過去の世界チャンピオンのそれぞれの知識や経験の共有化を図る“ターゲット2006”というプログラムを立ち上げたとの情報もある。
5大会連続してメダルを獲得し続けるシンクロナイズドスイミング日本代表チーム(以下、シンクロチーム)。20年以上も世界トップクラスを維持することは容易ではないことは想像するに難くないが、そこには独自のノウハウがあるのではないだろうか。我々のプロジェクトでは、シドニーオリンピックでチーム2位、デュエット2位を獲得した時のコーチである井村雅代コーチに、オリンピックでのコンディショニングについてインタビューすることができた。井村コーチは、「シドニーオリンピックでのチームのコンディショニングは成功した」と話す。3時間に及んだインタビューでは、「準備」がキーワードであった。
「どんな不便なところでも2日くらいすれば人間は生きる方法を見つける」
オリンピック期間中のスケジュール(チームとしての行動計画)は、選手のコンディションに直接的に影響を及ぼす大きな要因であることは、オリンピック参加経験がなくても想像できることである。スケジュールはコンディショニングに関わる全ての要因の“土台”であり、言うなれば、スケジュールの成功は、選手のコンディショニングの成功の必要条件と言っても良いだろう。それだけに、スケジュールの立案には、コーチやスタッフも頭を悩ませるところではないだろうか。
ロサンゼルスオリンピックから、5大会連続でメダルを獲得し続けるシンクロチームではどのようなスケジュールで大会にのぞんでいるのだろうか。オリンピックでのシンクロチームのスケジュールは、ロサンゼルスオリンピックから変わっていないと井村コーチは言う。
「ロサンゼルスオリンピックから参加していますが、その時のスケジュールが成功したと思っています。ですから、その後のオリンピックでは会場入りからは大会期間中は全て同じスケジュールでやっています。パターンとして、ともかく先に選手村に入る。入って開会式の前までに村の生活に慣れる。どんな不便なところでも2日くらいすれば人間は生きる方法を見つけるんですよね。1日目でも駄目、2日目でも駄目、2日半過ぎた頃から大体の生活の要領が把握できるので、開会式の前までに試合のプールを見る・知る・泳ぐというのも含めて全部把握して開会式を迎えます。(中略)開会式は出ます。開会式に出ることによって、オリンピックの規模とか凄さとか観衆の興奮具合とか、オリンピックのスケールを知ってもらう。開会式が終わったら選手村を出て、外に準備した練習場所へすぐに移動します。」
また、大会期間中には、予想外のことも起こる。他競技の動向や選手のケガ、移動の際のアクシデントなどは起こらないことはない。井村コーチは、起こり得るアクシデントの全てを想定し、たとえアクシデントが起こってもすぐにポジティブに対応できる術を持っている。動じないコーチの姿勢が、選手に安心感を与え、選手の力を引き出していると想像できるが、その背景には、大会期間中に起こりえる全ての可能性を、コーチ自身が大会の事前にシミュレーションしていたことがある。
シンクロチームは、大会期間中のスケジュールを遂行するために、大会の1年以上前から準備を重ねていると言う。今回のアテネオリンピックに向けても、1年以上前から会場を視察に訪れ、練習会場と宿泊先の選定を済ませている。「全てを把握していないと気がすまない」と井村コーチは付け加えた。
「日本のイメージについてマーケティング調査をしたんです」
シンクロは芸術系の競技のため、大会前までの様々な準備がある。演技内容、演技の音楽、水着は想像できるところだが、その他にも観客や審判への配慮も徹底している。これらの一つでも欠くことのできないという緊張感がコーチの声から伝わってくる。
「空手(チーム演技)の準備は、シドニーの前年の10月くらい(約10ヶ月前)から始めました。初めて選手を道場に連れていったのは8月。はじめは道場に通って、1月からは1週間に1回くらい先生が来て下さって、おじぎの仕方を教えてもらったりした。ダンスの先生はおじぎなんて地味だから駄目と言われたのですが、私がどうしてもしたいといって。あとはプロの演出家に来てもらってアドバイスもらったり。」
そもそも、空手を演じることにしようとしたのにも、現地の観客の感性に響く内容をとの配慮からである。
「戦術としてオリンピックの時は何をするかと言う私の考え方。オリンピックだけは注目度が大きいから世界中が見るじゃないですか。だから自分のやる演技やテーマで傷付く人がいたら駄目だと思う。(中略)だから「愛」と「信じる事」以外は、「自分の国を主張する」こと。日本のことを主張するなら誰も傷付かない。それであの時は自分を主張するという意味で空手をした。それには「日本のイメージ」についてマーケティング調査をしたんです。そうしたらそのイメージの中に「武道」があった。」
井村コーチは、当時シドニーから某市に来日していた視察団に対して、「日本のイメージ」について調査を行って、それを元にして「空手」の演技を選択したと言う。
演技時に流す音楽にも時間をかけている。音楽の担当者に何度も会場へ足を運ばせ、また会場の大きさ、音の響きも入念にテストして音楽を修正する。音楽の変更は試合直前まで許されることから、それまでに何度も修正を繰り返し、音楽担当者は連絡がくるのを怖がるくらいになってしまったと笑いながら話す。水着についても同様であり、プールや会場の色、照明、屋外か屋内かなども事前に調査をして、色やデザインを決めている。これらの取り組みはシンクロのような芸術系競技の独特なものかもしれない。しかし、準備を早期から始めること、また入念な現地の調査や、様々な分野の専門家を巻き込んだこだわりをもった音楽と衣装の選定は、記録系競技や球技系競技でもヒントになることは多いのではないだろうか。
「同じロケーションを作ることが大事」
「いつも通りにやるだけ」、「いつも通りに試合ができました」という言葉は、勝者から良く聞く言葉である。一方、「いつも通りにできなかった」、「いつもの力が発揮できなかった」というのは、敗者の弁である。オリンピックには、世界選手権やワールドカップなどの他の国際大会以上に「いつも通り」にできない環境がある。大会のスケールの大きさ、言葉が通じない、選手村での生活、複数種目の混在。最も“いつも通り”でないのは、日本を背負って戦うことだろうか。しかし、「いつも通りにできる」ことを、選手のメンタルの強さ・弱さで終わらせるのではなく、シンクロチームでは“シミュレーション”を使った練習で克服していた。
「大会に負けないために、練習をなみはやドーム(大阪府)でやりました。そこは少なくともオリンピック会場よりも大きい。そうしたらシドニーに行った選手が、『ここの会場狭いですね』なんて言った。私達のように見られて採点される競技は、同じロケーションを作ることが大事、いや、これはきっと他の種目でも同じだと思います。風のある競技は風のあるところで練習しなければならないでしょう。シンクロチームでは、オリンピック会場よりももっと大きな空間で練習をしているから、シドニーに行った時でも会場狭いですねと選手は言う。その言葉を聞いて選手たちはのまれてないな、と思いました。」
練習はただ大きい会場でやるだけでなく、大会時の“空気”までシミュレーションしていた。何万人の眼が注がれる会場では、演技が始まると空気が止まるという。止まった空気を再現するために、練習会場の係に人を全く通さないなど、シミュレーションのための依頼をしている。また、観客に慣れるために、選手村の人通りの多い場所をわざと選んで演技の練習をしたり、現地で交通機関を利用する場合でも、いつも通りにするためにあえて日本語で話すように指示したという。
「そこにある食事で何を食べれば良いかは判断できる」
大会で「いつも通り」にするための取り組みは、シミュレーションだけではない。シンクロチームは、早期から国際大会で勝てる選手を育成する意図をもった様々な教育を行っている。健康管理はもちろんのこと、特に栄養についてはジュニアから取り組んでいる。
「栄養指導のレクチャーは何かにつけてしています。何名かはクラブで中学二年くらいからやっていますね。だから今でも身についていますよね。(中略)オリンピックの時には、基本的にはそこの物を食べさせる。栄養士をつけたりする事もなくても、日頃何を食べたら自分の体重を維持できるかなどは知っていますから。ジュニアから食事については経験しているから、そこにある食事で何を食べれば良いかは判断できる」
日本代表選手に選ばれてからではなく、ジュニアの頃からの教育がオリンピックで効いている。シンクロはジュニアからの一貫指導体制が整っていることから、教育についてもビジョンを持った活動がしやすいのだろう。ジュニアからの教育については、育成のスペシャリストのDr. Istvan Balyi(カナダ)も同様のことを述べており、男子では10〜14歳、女子では10〜13歳に「スポーツ医科学のノウハウ」を学ぶことを、長期競技者育成プログラムにまとめている。奇しくも、シンクロチームはそれを実施していたと言えるのではないか。
シンクロチームの準備は全てにおいて徹底されていた。それが5大会連続メダル獲得を支えていることには間違いはないだろう。シンクロチームの取り組みは、他競技にも参考になることがたくさんある。
最後になるが、シンクロチームの徹底した準備の目的は、大会時に最高のパフォーマンスを発揮することを超えたところにあることを付け加えたい。この最終目的があるからこそ、メダルに手が届いているに違いない。もしかしたら、ここに他競技との差があるのかもしれない。井村コーチはこのように語った。
「私は全てにおいて用意周到であると思う。考えられる事は全て事前に押さえる。『どうにかなる』という事は絶対にない。用意周到だからこそ、一か八かの賭けもできる。」
(2004.4.22 掲載)