オリンピック・メモリアル vol.3
協力:秩父宮記念スポーツ博物館
文/国立競技場 三上孝道
日本がサッカーでオリンピックに出場したのは、1936年第11回ベルリン大会が最初である。その後、1956年の第16回メルボルン大会、1964年第18回東京大会と出場するが、ここまでメダルには届かず、次の1968年第19回メキシコ大会で、初めて銅メダルを獲得する。
1993年にJリーグが誕生してからの日本は、1996年第26回アトランタ大会から今年の北京大会まで、厳しい予選を勝ち抜き4大会連続で出場している。しかし、残念ながらメダル獲得までには至っておらず、メダルはメキシコ大会の銅メダルのみである。
この唯一のメダル獲得を語るときに欠かせないのが、現在「日本サッカーの父」と言われている日本初の外国人コーチ、デットマール・クラマーである。
クラマーは、東京オリンピック開催にあたってドイツから招聘された。外国人コーチを日本に呼ぶ経験もなかった時代、外国人を招聘することにさえも賛否両論があったが、1959年の第55次IOC総会の決定により、日本は1964年第18回オリンピックの東京開催という悲願を達成していた。
サッカー日本代表選手たちは、東京大会でのメダル獲得を目指して国内外で経験を積んだが、翌1960年に開催される第17回ローマ大会の予選で韓国に1敗1分し、ローマオリンピックの出場権を失う。東京オリンピックには開催国枠での出場が決定しているにもかかわらず、前哨戦ともいえるローマへの道は途絶え、サッカー関係者の悩みは深刻であった。関係者のこの時の落胆は、察するに余りある。
しかし、それにメゲルことなく、1960年夏、「イメージは高く、大きく持て」というスローガンのもと、日本蹴球協会(現日本サッカー協会)は、東京大会に向けて旧西ドイツから旧ソ連まで武者修行の旅に出るのだった。この時期の協会機関紙を読んでみると、戦術、フォーメーション、精神、ボール、グラウンドなど、日本サッカーを立て直せんと懸命に分析している。彼らの努力、真摯な気持ちが文章からにじみ出てくる。
1960年に初来日したクラマーは、東京オリンピックが終了するまでの延べ約1年10カ月、日本サッカーの基礎を築き上げた。クラマーは基本の基本から徹底的に教えただけでなく、「サッカーの哲学」を日本へ植え込んだ。メダルを目指した東京オリンピックではベスト8に沈んだが、その後も、ことあるごとに日本サッカーを見つめてくれた「大恩人」なのだ。
クラマーは東京オリンピック終了後の帰国にあたって、5つの提言を残している。
今では当たり前のことのようであるが、当時は画期的な提言であった。
この彼の提唱により1965年に日本サッカーリーグ(JSL)が創設され、当時競技力の高かった大学の有望選手たちが、続々と「日本サッカーリーグ参加チーム(実業団)」に入団することになる。この創設が1968年メキシコ大会銅メダルの栄光につながっていくのである。
クラマーは最初の練習の時、選手に言ったそうである。
「サッカーには人生のすべてがある。特に男にとって必要なすべてがある」
「グラウンドはサッカーだけをやる所ではない。人間としての修練の場である」
いい言葉である。
クラマーのコーチ風景
「言葉の魔術師」といわれたクラマーは、数々の言葉を残している。日本蹴球協会編による名著「日本サッカーの歩み—日本蹴球協会創立満50年記念出版」(1974年・講談社刊)より抜粋する。
JSLは、1965年に第1回が行われ、第27回(1991〜92年)まで続き、Jリーグへと進化する。
そして、いよいよ北京オリンピック。サッカー日本代表は、8月7日に初戦のアメリカ戦を天津で迎える。日本はアメリカのほか、オランダ、ナイジェリアという難敵ひしめくグループBである。
ぜひともガンバッテ欲しいものだ。
(2008.6.12掲載)
オリンピック・メモリアル vol.1 第1回アテネオリンピック優勝メダル
オリンピック・メモリアル vol.2 1964年東京オリンピックポスター
オリンピック・メモリアル vol.3 日本サッカーの父 デッドマール・クラマーの言葉
日本サッカーの父 デッドマール・クラマーの言葉