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シリーズ連載「東京オリンピックから40年」

第4回アジア競技大会を乗り切り、そして東京オリンピックへ・青木半治氏
揺れた第4回アジア競技大会

 1964年10月10日、東京オリンピック組織委員会の一員だった青木半治は、前日までの大雨が嘘のように上がり、晴れ渡った開会式の当日を迎えた。そして最終聖火ランナーである坂井義則が、聖火台までの182段の階段を登り詰める勇姿を万感の思いで見つめていた。
 その2年前、スポーツの世界で生きてきた青木にとって生涯忘れることのできない事態が第4回アジア競技大会で起きた。1962年8月のことである。
 インドネシアのジャカルタで開催されようとしていた第4回アジア競技大会は、当時、親中国、親アラブの政策を取っていたインドネシア政府が、本来参加資格のあったチャイニーズ・タイペイとイスラエルに対し入国身分証明書を発行せず、事実上両国の参加拒否という、大会の開催権を握るアジア競技連盟の意向に反する強行な姿勢を見せていた。
 日本からは、本部役員12名、参加16競技団体役員31名、選手209名の計252名が8月19日の夕刻、ジャカルタに到着していた。青木はJOCから派遣された日本選手団の総務主事であり、同時に理事長でもあった日本陸上競技連盟を代表して第4回アジア競技大会に臨んでいた。
 IOCからは、権利のある国が参加できない場合には第4回アジア競技大会を支持しない旨の発表があり、さらに国際陸上競技連盟(以下、国際陸連)からもペイン名誉秘書名で「チャイニーズ・タイペイ、イスラエルを参加させない限り、国際陸連としては大会を認めることはできない。この大会に参加した国は国際陸連から除名する」という電報が届いた。東京オリンピック開催への影響、さらに陸上選手の除名、青木の苦悩の時が、ジャカルタで始まった。
 情報を交換するために、青木がもっとも信頼していた日本陸上競技連盟の安田誠克常務理事と何度となく電話による連絡を試みた。しかし、その電話は繋がりにくい上に、話が核心に触れると途中で切断されてしまうことが多くあった。24日に行われる開会式までに残された時間は少なかった。早急な決断が迫られる中で、情報の確保と共有化という点では東京もジャカルタも、その不足に泣かされた。
 青木は著書“幸運の星の下に”(1998年、株式会社ベースボールマガジン社刊)に「日本が参加を取りやめていたら、大会が混乱するだけでなく、選手自身や在留邦人に危害がおよぶ可能性も決して否定できなかったのである」と述懐する。現地の切迫した状況は、なかなか東京に伝わらなかったのだと言う。
 全ての判断は現地に任され、24日の開会式に続き、ウエイトリフティングを除く参加予定競技すべてに日本代表選手は出場することとなった。

個性豊かな指導者たちと感泣のなかで幕を閉じた東京オリンピック

 1915年、千葉県に生まれた青木は中学生時代に砲丸投と出会う。それまで相撲、水泳、柔道と多くの競技に関わってきた青木だったが、砲丸投の虜となった。県大会はもちろん全国大会など多くの大会で優勝した。
 毎日毎日、砲丸を投げ続けた。練習がスポーツ選手を育てるという持論は、この頃から持っていた。砲丸投という競技を知らない人からは、あんなに重たいものを投げてばかりいて何が面白いのかと思われたこともあった。
 早稲田大学に入学後も砲丸投を続けた。一時、フォームを改造され記録が伸びない時期もあった。しかし卒業の年に行われた全日本選手権大会では見事優勝。「とことん夢中になる」性格だと自らを語る。その後、日本陸上競技連盟の常務理事、同理事長、JOC常任委員を務め、1962年10月にはJOCの総務主事となる。
 常にスポーツと向き合いながら生きてきた青木だが、オリンピックだけは出場したことも、見たこともなかった。だが47歳という年齢で最年少の東京オリンピック組織委員会の委員に選出された。重職を務める中でのプレシャーは語り尽くせないほどに大きかったと当時を振り返る。またジャカルタでの忘れることのできない苦悩の日々が開会式を迎えた青木の脳裏に鮮やかに蘇っていた。同時に敗戦国としての屈辱を味わいながらも、国を挙げての復興、さらに発展を遂げ、見事なオリンピックを開催するに至ったことも青木の中に喜びとしてあった。
   ロイヤルボックスのすぐ後方に席を得た青木は、各国の役員・選手団が天皇陛下に敬意を表し入場行進する光景を見て、うれしさの余り涙が止まらなかったと言う。

東京オリンピック日本代表  今、東京オリンピック当時を振り返り、当時は個性豊かで立派な指導者が多かったと青木は語る。
 「東京オリンピックで金メダル5個を獲得したレスリングの選手たちを、独特の手法で鍛えた八田一朗さんは大先輩にあたるけれども、強化の一端として選手を動物園に連れて行き、ライオンと睨めっこをさせたり、移動中の列車の網棚に選手を寝かせたり、ユニークな方法で選手を鍛えた。体操の近藤天さんも明るく選手強化に情熱を持っていた。でも早く亡くなってしまって本当に残念だ。また当時日本アマチュア・ボクシング連盟の副会長だった柴田勝治さんは、私が1969年にJOCの委員長に就任した時、総務主事を務めてくれた。何でも報告をくれて相談もしてくれた。細かいことにも目配りができる頭の良い人だった。みんな誰でも人間だから欠点もあるけれども、素晴らしい人たちばかりだった。今ではあのような人たちは本当に少なくなった」と思い起こす。
 青木は著書(前述同書)の中で、「東京オリンピックはまた、日本という国の存在を世界中に広めてくれた。それまでの日本は一部の国を除いて本当に知られていなかった」と語る。戦後の目覚ましい発展を世界中に示すことができたのは、東京オリンピックによるものだった。
 青木は全審判員と共に東京オリンピックを終えたばかりの競技場スタンドの最上段に立ち並び、激しくも華麗な一流選手たちの戦いの余韻が残るフィールドとトラックを前に、国際陸連のエクゼター会長から「素晴らしい大会だった。そして立派な競技運営だった」と最大の評価の言葉を聞かされた。そして青木は感泣した。
 喜びの涙と共に、青木の東京オリンピックは幕を閉じた。

青木半治
・青木半治 あおき・はんじ
 1915年7月16日、千葉県夷隅郡岬町(現・いすみ市)生まれ。早稲田大学商学部から日立製作所に進み、陸上競技・砲丸投げの選手として活躍。引退後は東京オリンピック組織委員会理事、JOC委員長、ミュンヘンオリンピック日本代表選手団団長、日本陸上競技連盟会長、国際陸上競技連盟副会長、日本体育協会名誉会長などの要職を歴任した。2010年5月に94歳で死去。

掲載日:2004.9.16

東京オリンピック1964