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仁川アジア大会


第17回アジア競技大会(2014/仁川)

「限りなき前進 アジア大会」
(2)五輪開催に弾み 東京で第3回大会

 1950年代は日本が高度成長期へと移りつつあった。戦後復興を世界にアピールする絶好のチャンスになるとして、アジア初の五輪を日本に招致しようという動きが活発化してきていた。東京五輪が開催されたのは1964年だが、その4年前の1960年五輪招致を目指して、準備は進められていた。1952年5月に東京都議会が満場一致で五輪招致を決議した。開催都市選定の投票権を持つ国際オリンピック委員会(IOC)委員や各国のスポーツ関係者に日本の競技施設などを知ってもらおうと、五輪開催に先立って、東京でアジア大会を開催する案が浮上した。1952年7月のヘルシンキ五輪に合わせて開催されたアジア競技連盟(AGF)総会で、日本の代表団が58年第3回大会の日本招致を訴え、開催権を手に入れた。

開催を翌年に控えた1957年、建設中の国立競技場を視察する松永東文部大臣

開催を翌年に控えた1957年、建設中の国立競技場を視察する松永東文部大臣

 1955年に開かれたIOC総会では1960年五輪の開催都市を決める投票が行われた。1956年の開催地が南半球初となるオーストラリアのメルボルンで、2大会連続で欧州を離れることに多くのIOC委員が抵抗感を持っていたため、1960年五輪の開催地にはイタリアのローマに決まった。ただ、アジア大会で日本の開催能力の高さを示したことが1964年東京五輪の大きな推進力となった。

 アジア大会に向けて神宮外苑競技場を解体し、開閉会式や陸上競技を行うメーン会場の国立競技場が建設されるなど競技施設の拡充が行われ、「アジア大会から五輪へ」の気運は高まった。開幕直前の1958年5月にはIOC総会が東京で開催され、実際に競技施設を見てもらうことに成功した。日本体育協会の東龍太郎会長は大会報告書に「IOC総会とアジア大会という二兎を追いながら、どうやら両兎ともものにすることができた。次に狙うのは1964年五輪というのが衆目のみるところ」と記した。翌年、当時西ドイツのミュンヘンで行われたIOC総会で東京が1964年五輪開催地に決まった。戦後復興がいかに進んでいるかを目の当たりにしたIOC委員の多くが東京に票を投じたといわれている。

国立競技場での第3回東京大会開会式で入場行進する日本選手団

国立競技場での第3回東京大会開会式で入場行進する日本選手団

 第3回東京大会には20カ国・地域が参加し、陸上、水泳など13競技に柔道、バドミントンがデモンストレーション競技として加わった。開会式では天皇陛下が開会を宣言し、アジア人として個人では初めてとなる五輪で金メダルを手にした1928年アムステルダム五輪陸上三段跳び金メダリスト、織田幹雄さんが聖火台に火をともした。

 日本勢は男子自由形の山中毅、女子背泳ぎの田中聡子らを擁した競泳が好調で、25種目を制覇した。唯一優勝を逃したのは女子400メートルメドレーリレーで、トップでゴールしながら引き継ぎ違反で失格となった。自転車、ボクシング、レスリングなどでも着実に優勝を手にし、金メダルは67個で2位のフィリピン(9個)に大差を付けてアジアの盟主の地位を確固たるものにした。(共同)
 
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