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アスリートメッセージ

バスケットボール 田臥勇太

第一人者の誇りと自覚を持って、
アジア競技大会そしてオリンピックへ

文:松原孝臣


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能代工業時代、3年連続三冠の原動力となった
写真提供:アフロスポーツ


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2004年9月、日本人初のNBAプレーヤーとして、フェニックス・サンズと契約
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2004年、サンズでNBAデビューを果たした
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2008年9月、日本に帰国。リンク栃木ブレックスへ入団
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それは待ち望んでいた光景だった。それは新鮮な光景でもあった。7月7日、中国プロリーグの東莞レオパーズとの強化試合で、田臥勇太は12年ぶりに日本代表に復帰を果たした。

12年もの長い歳月、日本代表としてプレーすることがなかった理由は、実力の面ではない。そこには、自身の夢を大切にしてきたからこその月日があった。そして今、その夢をも含めた新たな挑戦として、日本代表に加わることを決めた。日本バスケットボール界のパイオニアと呼ぶにふさわしい男は、どのような心境と考えから、今、日本代表へと加わることになったのか。

三年連続三冠からのスタート、NBAへの挑戦

田臥勇太の名を知らぬ者は、日本のバスケットボール界にはいない。中学時代、全国大会で活躍し、能代工業高校では1年からレギュラーを獲得。能代工業は田臥の在学中、3年連続で高校総体、国体、全国高校選抜の三冠という偉業を達成するが、原動力はポイントガードである田臥にあった。抜群のスピード、広い視野が生み出すパスは、対戦相手やチームメイトはむろんのこと、観客をも驚嘆させ、魅了した。当時の人気の過熱ぶりを物語るエピソードは数知れない。試合会場が満員札止めになることは珍しくなかった。サインを求めるファンが殺到し、裏口からこっそり会場を出なければならないときもあった。高校3年の全国高校選抜決勝戦の試合前には、会場の東京体育館の周囲を、どこまで続くのかと思うほど長い行列が囲んだ。

田臥は能代工業を卒業後、ブリガムヤング大学ハワイ校へ進む。2002年に中退すると、トヨタ自動車に加入。1年目から全試合出場を果たし、新人王を獲得した。トヨタは準優勝を遂げ、観客動員の多さから、日本リーグ自体も活性化した。

だが田臥は2003年、新たな選択をする。トヨタを退社し、以前から憧れていた世界最高峰のバスケットボールリーグ、アメリカのNBAへの挑戦を決めたのだ。具合的にあてがあるわけではなかった。それでも一度起こった衝動は抑え切れなかった。つてをたどり、NBAのチームのひとつ、ダラス・マーベリックスのサマーリーグに参加する。当時を振り返り、田臥は言う。

「いやもう、今までに経験したことのない高いレベルでした」。それは、「厳しさを感じつつも楽しさも感じる」場だった。マーベリックスには残れず、アメリカの独立リーグに活躍の場を求めた田臥は翌年、夢を実現することになった。NBAのフェニックス・サンズと契約を交わし、開幕メンバーに登録されたのだ。初めての日本人NBA選手誕生の瞬間でもあった。

デビューは早くも開幕戦で訪れた。その日を、田臥ははっきり覚えている。「外から見ていると、コートがコンパクトに感じていたのですが、立ってみたらより広く感じた。スタンドが大きかったり、すごい開放感があったり、そういうスケールの大きさも感じましたね」。

NBAへ新たな道の模索、そして日本へ

同年末、サンズを解雇となったが、その後もアメリカにとどまり、毎年、さまざまなチームに参加しては、チャンスを求め続けた。田臥は前述のとおり、初のNBA選手である。つまり、先例はない。だからどのように行動すればよいのか、道筋もない。NBAへの挑戦は、自身で道を開く作業の連続でもあった。「たしかに、誰かに聞くことはできない不安はありましたけど、でもそれすら考えている余裕はなかったですね。何をしなければいけないのか、どういう道があるのか探って、話がきたらそこに行きますという感じでした」

毎年、糸口をつかんではアメリカで挑戦を続けてきた田臥だったが、2008年、帰国し、リンク栃木ブレックスに加入する。能代工業高校時代の監督だった加藤三彦氏がヘッドコーチに就任したこととともに、こんな思いもあった。「アメリカではベンチにいる時間が長かったり、そもそもユニフォームを着るための戦いがずっと続いていて、試合の経験から遠ざかっていた。まずは試合に出てしっかりプレーをする、もっとチームの責任を負ってプレーするというのを欲していたところもありました」

1シーズン目は5位で終わったものの、そのシーズン途中から加藤氏に代わりヘッドコーチに就任したトーマス・ウィスマン体制の2シーズン目となる09−10年、優勝を果たす。アイシンとの対戦となったプレーオフファイナルのMVPに輝いたのは、田臥だった。その後、ウィスマンは日本代表ヘッドコーチに就任。5月に発表された日本代表候補には、09年に引き続き田臥も名を連ねた。そして、NBA挑戦のための渡米を理由に辞退した昨年と異なり、ウィスマンのもと、日本代表で活動を始めたのだ。

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