コラム/インタビュー

アスリートメッセージ

水泳・競泳 古賀淳也

2番手にはもう甘んじない、ロンドンの頂点へ

文:折山淑美


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2005年の東アジア競技会では得意種目の50mで銀メダル
写真提供:アフロスポーツ


中学3年生のときに、全国中学校選手権100m背泳ぎで優勝。高校でも日本高等学校選手権(インターハイ)100m背泳ぎを制した古賀淳也の才能が、本格的に花開いたのは21歳となった2009年だった。4月の日本選手権100m背泳ぎでは予選、決勝と日本記録を連発して初優勝を果たす。そして7月の世界選手権でも100m背泳ぎを初制覇して、一気に世界の頂点へと上り詰めたのだ。 日本人の世界選手権優勝は、平泳ぎの北島康介に次いで2人目の快挙だった。

逃がした北京オリンピック 空手通いで気持を入れ替え

その転機のキッカケを、古賀は北京オリンピックの代表になれなかったことだという。「正直なところ、オリンピック選考会にあたる日本選手権の3ヶ月前からオリンピックを目標に始めたくらいだから、そんなに気持は入っていなかったんです。すごい緊張感を持った選手たちと、中途半端な気持でレースをしても、気持負けするのは当たり前じゃないですか。案の定、結果は出なかったし、レース後に感じたのも『やっと終わった!』っていうような安堵感だったんです。でもオリンピックが始まって、テレビに映る代表選手たちをみているうちに、『みんな注目されてていいな。やっぱり僕も出たかったな』と思って、やっと悔しくなったんです」

だからといってすぐ気持が改まったわけではなかった。たかだか3ヶ月間だけの努力。オリンピックを目標にしていた他の選手とは比べ物にならないほどの努力でしかないが、それまで成績へのこだわりを持ってこなかった古賀にとっては、初めて練習に集中した時間だった。その努力が報われなかったことに虚しさを感じてしまい、ふてくされるような気持になった。

9月の日本学生選手権(インカレ)では、「どうせ頑張ってもみんなに注目されることはない」とも思い、適当な気持で耳にピアスの穴を開けたり髪の毛を染めてみたりした。結局インカレは100mで北京オリンピック代表だった入江陵介に敗れる2位。メドレーリレーでも出遅れてチームの脚を引っ張ってしまった。

「そんな時に、以前から体のケアをしてもらっていたトレーナーの白石宏先生に怒られたんです。それまでは『オリンピックに出られなくて残念だったね。頑張ったけど仕方ないね』という慰めの声をかける人がほとんどだったけど、初めて『何やってるんだ。そんなことでは今までやってきたことが無駄になるじゃないか!』と怒られたんです」

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2005年の東アジア競技会では50mで銀メダル
写真提供:アフロスポーツ


その激しい言葉でやっと「自分自身を変えなければいけない」と思うようになった古賀は、白石の勧めで空手道場に通いだした。そこでは「礼儀正しさはなぜ必要か」など、人間としての基本を教えられた。それまでは人の話しを聞く時でも集中できないことが多かったというが、道場では話している人に失礼がないようにと、すべての言葉に集中した。そんな経験をしているうちに、自分の気持がドンドン変わり始め、水泳の練習にもこれまで以上に集中できるようになってきた。

「一番変わったのは、水泳に対して本当に真っ直ぐに向き合うようになれたことだと思いますね。それまでの僕は、目立ちたいという気持だけで水泳をしていたんです。でもそれが、純粋に、どうやったら速く泳げるかなどということを自分の中でしっかり考えられるようになったんです」

スイミングクラブの楽しさ、そして甘え

5歳から地元の埼玉県熊谷市のスイミングクラブで楽しみながら水泳をしていた古賀は、大学進学も、大学の体育会ではなくスイミングクラブで練習し続けてよい条件を優先して入学した。そんな環境に慣れることで出てしまっていた甘えのような気持ちが、彼になかなか欲を持たせなかったのだろう。

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「自分を変えなければと」強く思ったのは北京オリンピック後だという


「昔から、そんなにガツガツやったという感じじゃなかったですね。小学生くらいから背泳ぎをやってたけど、同じクラブに幼稚園から高校まで一緒の山元啓照という自由形の選手がいたんです。全国中学も中学2年で2位になった選手だったから、彼に負けたくないという気持があったんです。具体的に日本一になりたいとか、世界の舞台で戦うという目標ではなく、とにかく目の前の目標である山元に勝ってやろうという気持でやっていたんです」

古賀は自分を、基本的には目立ちたがり屋だったという。大きな欲はなかったが、どうせやるなら目立ちたいと思っていたと。だが現実は常に2番手だったと苦笑する。中学3年で全国中学校選手権大会(全中)の100m背泳ぎで勝っても、メディアなどから常に声を掛けられるのは中学新で100m自由形に勝った山元。彼は高1でインターハイ王者にもなり、注目を集め続けた。

高校の終わりくらいになって、その山元にも何とか並んだかなと思えるようになったが、今度は同じ春日部共栄高のチームメイトだった北川麻美が、平泳ぎと個人メドレーでグングン記録を伸ばして注目されるようになった。彼女は大学も同じ早大へ進み、世間の目は北京まで駆け上がった彼女の方に集中した。

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北京オリンピック前を振り返る古賀選手


「背泳ぎだと同じくらいのレベルには2歳下の入江陵介がいたけど、彼は早くから実力があったから、代表に入るとレースをするたびにベストを更新してあっという間に追い越されてしまって。年下だったから本当に悔しかったですね。でも、2番手という位置に慣れてしまったというか、『いくら頑張ってもどうせもてはやされるのは向こうだし…。自分はずっと日の目を見ないんだな』という気分になってしまいましたね。北京オリンピックの選考会の時までそんな感じだったんです」

そんな時期、彼が強く意識していた種目は50mだった。小学4年で初めてジュニアオリンピックに出場した時から泳いでいた種目であり、高校1年で日本ランキング7位になるなど、トップに近づける種目だと思えたからだ。オリンピックでは実施されない種目だったが、今できる自分の泳ぎを完璧にやらなければいけない緊張感や、スピード感に魅力を感じていた。トップ選手のバサロキックをみて真似をしたりして、自分が速くなることを考えるのに熱中した。

「あの頃はオリンピックや金メダルというのよりも、大会で友達に会って話をしているのが楽しかったんです。その中でオリンピックなんて話題は出なかったし。考えてみれば本当に狭い世界にいたんですね。でもその狭い世界でも、所属クラブがあった埼玉県の熊谷は中学や高校では日本のトップレベルだったので、中学・高校とも全国制覇をできてそれなりの結果を出して、満足しいた部分もあると思いますね」

そうはいいながらも、日本代表になりたい気持ちは徐々に芽生えてもいた。それを実現するのは、自分が最も楽しい種目である50mが一番近道だと考えていた。目標は世界選手権。オリンピック種目ではないことも、当時の彼にとってはまったく関係が無かった。

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