コラム/インタビュー

アスリートメッセージ

スケート・スピードスケート 長島圭一郎

周りを気にするのではない、自分がどうなりたいかだけ考える

文:松原孝臣


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2004年のユニバーシアードで優勝、短距離の期待の星となった
写真提供:アフロスポーツ



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2006年トリノ冬季オリンピック500mでは13位。自分の力の無さが悔しかったという。
写真提供:アフロスポーツ



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2006年11月ワールドカップヘレンベーン大会で初優勝、フォームを見直した成果が現れた
写真提供:アフロスポーツ

バンクーバー冬季オリンピックが終わって2カ月近くがたった日本で、スピードスケートの長島圭一郎は、多忙な日々を送っていた。表彰などの行事が今なお、続いていたのだ。地元北海道などでの表彰に加え、プロ野球の始球式、天皇・皇后両陛下が主催された春の園遊会、さらに官邸からの招待も受けた。

「慣れてないから大変ですね。でもめったにない経験ですから。こういうときだけですからね」

ネクタイを締めたまま、笑って言った。

「オリンピックが終わってこういう状況になるとは、まったく想像もしていませんでした。金メダルじゃなかったし」

バンクーバー冬季オリンピックで銀メダルを得て帰国した。以前から公言していた金メダルではなかったが、鮮やかなレースぶりもあいまって、それは十分に祝福されるべき成績だった。自身も、レース直後は大きな身振りで喜びをあらわにしているようだった。

しかしその後は、どこか嬉しさを感じていないかのような、覚めた姿勢が見え隠れしている。銀メダルを手にしたスプリンターの真意はどこにあるのか。オリンピックで感じたものは何だったのか。

情けなさだけが残ったトリノ大会

バンクーバー冬季オリンピックは、長島にとって2度目のオリンピックだった。北海道に生まれ、姉が習っていた影響でスケートを始めた。高校入学とともに、並行して取り組んでいた野球をやめ、スピードスケート一本に絞る。高校3年のとき、長距離から短距離に転向。わずか3カ月ほどで全日本ジュニア選手権500m、インターハイ1000mで優勝し、才能を開花させた。大学時代は伸び悩む時期もあったが、社会人となった1年目の05年12月、全日本スプリント選手権で総合優勝を飾り、トリノ冬季オリンピック代表に選ばれた。

そのトリノ大会では、500mと1000mで、それぞれ13位、32位という結果に終わる。この大会では、日本のスピードスケート陣全体でも、メダルを獲得できずに終わった。1988年のサラエボ大会以来、6大会連続で獲得してきたメダルが途切れたのだ。大会前に、期待が寄せられていたこともあって、厳しい評価が相次いだ。中には、「惨敗」という言葉もあった。

しかし、長島にとって最もこたえたのは、そのことではなかった。持っている力は出し切ったという実感があった。それなのに、上位の選手たちには遠く及ばなかったのだ。日本のスピードスケートが惨敗と言われようと、自分はその中にいない。叩かれる立場にすらいなかった。そもそも、期待を集めていたのは会社で同僚の加藤条治で、自分は期待されてもいなかった。

自分の力の無さが、ただ情けなかった。


2006年トリノ冬季オリンピックでは、力を出し切ったものの成績は振るわず
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すべてを見直し実績を積んだ4年間

失意に沈んだ長島は、そこで終わらなかった。屈辱をバネに、実力をつけることをひたすら考えた。自分に足りないのは何か、スタートダッシュ、カーブなど、すべてを見つめ直し、練習に励んだ。

その成果はすぐさま表れた。オリンピックの翌シーズンとなる06−07年に、ワールドカップ500mで初優勝を飾るなど4勝をあげたのだ。オリンピック前シーズンの08−09年にも、ワールドカップで3勝をあげた。さらに09年1月の世界スプリント選手権では、清水宏保以来、日本勢8年ぶりの表彰台となる総合2位にも入った。以前、長島は、トリノ大会以降の4年をこう語ったことがある。

「自分の力がトリノで分かりましたから、強くなるためには何が必要かを考えて、しっかり土台を一つ一つ作ってきた4年間でした」

トリノ大会前とは違い、実績を積み上げた。海外からも注目され、むろん日本でも大きな期待を集める選手として、臨んだのがバンクーバー大会だった。

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