コラム/インタビュー

アスリートメッセージ

アスリートメッセージ スケート・ショートトラック 藤本貴大

表彰台の一番高いところを目指して

文:松原孝臣


2009年12月20日。ゴールすると、彼は涙を流した。男子のオリンピック出場枠は3つ。すでに2つが決まり、残る1つの座をかけて行なわれた1000m。2位になれば、選考基準で代表になれることは分かっていた。

だが、試合では何が起こるか分からない。ましてや、接触による転倒などのアクシデントも起こりやすい競技だ。自身、前日の500m決勝では転倒していた。

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バンクーバー冬季オリンピックでともに戦う、高御堂雄三選手(左)と吉澤純平選手(中央)
写真提供:アフロスポーツ

緊張と不安の中、優勝よりも、オリンピックへの出場を優先したレース運びを展開し、狙い通りの2位でゴール。それは4年間、目標としてきたオリンピック代表を手に入れた瞬間でもあった。

「レースの前は、精神状態はかなり不安定でしたからね。やっぱり達成感はありました」

1000mで2位となり、スケート・ショートトラックの藤本貴大は、バンクーバー冬季オリンピック日本代表の最終選考会を兼ねた第33回全日本ショートトラックスピードスケート選手権大会での心境をこう振り返る。

「大会の前は気持ちが非常に盛り上がっていて、全種目1位を取るくらいのつもりでした。ところが、一番得意なはずの500mで優勝できなかった。その時点で、もう望みはないんじゃないかと、気持ちが半分以上切れかかっていて……」

それでも藤本は、気持ちを立て直して、1000mに臨むことができた。その理由を、このように語る。

「正直、会場にひとりだったら、あの成績は手に入らなかったと思います。でも、両親も実家のある熊本から駆けつけてくれていました。会社のみんなも応援に来てくれた。周りの人たちがそれだけ応援してくれている中で、自分ひとりだけ切れるわけにはいかない、と思ったんです。だから本当に、応援のおかげというのが正直な気持ちです」

口にする周りの人たちの支え。それは、藤本の競技人生のあちこちでも、時に力となったものだった。


第33回全日本ショートトラックスピードスケート選手権 男子1000mで2位に入った藤本選手
写真提供:フォート・キシモト

最南端の日本代表選手――。
前回のトリノ冬季オリンピックで、藤本は、そんな肩書きとともに語られた。

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「周りの人たちの応援のおかげでバンクーバーの代表に選ばれることができた」と語る藤本選手

出身は熊本県。父の転勤とともに、幼少で北海道の帯広に引っ越す。そこで、スピードスケートと出会った。小学3年になると、再び転勤で、熊本に戻る。すると藤本は、スピードスケートからショートトラックに転向する。練習できる会場のリンクが、スピードスケートをするだけの大きさではなかったのが理由だ。

リンクはあるとはいえ、熊本である。毎日、十分な練習ができるわけではない。週に2、3回は福岡のリンクまで父に連れられ、氷の上を滑った。むろん、授業が終わり、家に帰ってからのことだ。福岡までは、車で片道1時間半ほど。その道のりを往復しての練習である。小学生にとっては、きついスケジュールでもある。熊本では、いつしか、ショートトラック部のある文徳高校の選手たちと一緒に練習するようになっていた。

こうした話を聞くと、ハードな毎日に思える。そう尋ねると、藤本はこう答えた。 「当時、僕は漠然とショートトラックをやっていただけなので、福岡まで行くのが大変だとか、高校生と一緒にやるのが怖い、きついとか感じたりはしませんでした。そこまで突きつめてやっている意識はありませんでしたから」

ただひとつ感じていたのは、両親の熱意だった。
「僕がやりたくてやっていた、というよりは、両親の続けさせたいという思いが強かったような気がします。何か輝きがあったのでしょうか(笑)。それはともかく、仕事が終わってから車で遠くまで練習のために連れて行ってくれたり、練習環境を整えてくれたり、そうした努力については感じていました」

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