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アスリートメッセージ

アスリートメッセージ 水泳・競泳 松田丈志

北京オリンピックの年になっても
1分55秒台から脱皮できなくて、本当にマズいと思った

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2005年世界選手権モントリオール大会で銀メダルを獲得。
写真提供:アフロスポーツ

宮崎県延岡市に生まれた松田は、恵まれた環境で水泳をしていたわけではなかった。

子供の頃から通っていた東海スイミングクラブは、東海中学のプールを本拠地にするクラブ。父兄たちの協力で、プールをビニールハウスで覆っているが、夏は暑く冬は寒いという環境だった。彼はそこで、以前は旭化成で競技をしていた久世由美子コーチの指導で水泳に打ち込んだ。

「私も子供たちをよく怒ったんです。『やる気がないなら、今すぐ帰りなさい!』なんて。そんな時、ほとんどの子はプールから上がったけど、丈志は涙を流しながらでもプールから上がりませんでしたね」と久世は言う。

生真面目に水泳に取り組む性格だった松田は、自由形中・長距離で力を伸ばし、高校3年の2002年に800m自由形で日本選手権を初制覇。中京大進学後の2004年は、日本選手権で800mに加えて自由形の400mと1500m、200mバタフライで初優勝して4冠を獲得。400mと1500m自由形の日本記録保持者にもなり、200mバタフライの派遣標準記録を突破してアテネオリンピック代表の座を手にしたのだ。

松田の200mバタフライへの挑戦は、2005年世界選手権モントリオール大会で銀メダルを獲得と、順調にスタートしたようにみえた。だが、本人の思いは違っていた。

「アテネオリンピックで(山本)貴司さんが1分54秒56までいっていたから、僕もまず54秒台を出さなくてはいけないと思っていたんです。あの世界選手権もものすごく調子が良くて、『いいな!』と思ってたんです。でも泳いでみたら、2位にはなったけど1分55秒62。『この調子で54秒が出ないと、ちょっとまずいぞ』と思ったんです」

この当時の松田のレースパターンは、前半は遅いが後半の100mでスタミナを活かして追い上げるものだった。だが、世界で勝負するためには、そのパターンでは勝ち目がない。そのためにスピード強化を課題にしたが、それまでのように自由形長距離も並行してやっていく中ではなかなか改善できなかった。1500mで日本人が届いていない14分台に入りたい、という思いもあったからだ。2005年頃から韓国の朴泰桓や中国の張琳が14分台に突入しそうな記録を出してくると、心が揺らいだ。

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危機感を覚えた、2008年4月の日本選手権。
写真提供:フォート・キシモト

「アテネオリンピックの時も、何だかんだいって泳ぎに迷いがあったんです。だから北京オリンピックの年までには泳ぎとか練習法に迷いがないようにしておきたかったから、世界選手権でメダルをとってからは、あえていろいろな事を試そうと思ったんです。でも、もともとが長距離だったから、いろんなところを切り換えていくのが難しかったですね。1500mもやっていたから、そっちの練習にも時間をとられるし。『1500mの事は完全に頭の中から外そう』と思えたのは、2007年3月の世界選手権メルボルン大会が終わってからでした。でも本当に気持ちが切り替わったのは、(同年)8月の世界競泳だったと思うんです。あそこで良くなかったから、『本当に、何かを変えなくては』と強く思ったんです。北京オリンピックまであと1年を切っていたから、今までと一緒ではダメだなと思って」

前半のスピードアップを意識した練習をメインにこなして臨んだ2008年4月の日本選手権。松田は前半の100mを、山本の日本記録のラップタイムを1 秒以上も上回る54秒09で通過した。それまでの100mの自己ベストが53秒88だという事を考えれば、飛ばし過ぎとも思えるものだが、彼には「前半を世界と並んでターンできるくらいにしておかなければ勝負はできない」という思いがあった。結局、派遣標準記録は突破してオリンピック代表は決めたものの、柴田隆一に0 秒09遅れる1 分55秒66で2位に終わったのだ。

「本当にマズいと思いましたね。北京オリンピックの年になっても55秒台から脱皮できなくて。52秒までいっているフェルプスは別にしても、2008年に入って54秒台前半から中盤のタイムを何人もが出したので、メダル圏内は1分53秒台まで上がったと思っていましたから」

半年間の取り組みで、課題のスピードはついた。だがその代わりに後半の泳ぎへの不安が生まれたのだ。持ち味だった後半の粘りをもう一度復活させる事ができるか。それが北京オリンピックで戦うための大きな課題になった。

そのためには、200mを速く泳ぎきるために、最も自分に合ったペース配分をつかまなくてはいけない。それを意識した2008年6月のジャパンオープンで松田は、前半の100mを54秒56で入り、念願の54秒台、1分54秒42の日本記録を樹立した。そこでやっと、北京オリンピックのメダルが見えてきた。


2008年6月のジャパンオープンで、念願の1分54秒台を記録。  写真提供:フォート・キシモト

「それからすぐに高地合宿に行ったんですが、自己ベストを出した直後だったから、気持ちも入っていてすごくいい練習ができたんです。そこで北島康介さんたちがやっていた100mを10本という練習も、自分から志願してやらせてもらって。僕はまだ200mを専門にして日が浅いから、200mや100mの練習というのはどういうものなんだろう、っていう気持ちがずっとあったんです。メチャメチャきつかったけど、終わってから平井(伯昌)先生が『丈志が一番元気だな』と言ってくれたんで。それがすごく自信になりましたね。長年長距離をやってきたから、スタミナは持ってるんだなって。例えば、康介さんが100m×10本を月に1回しかやれないとしたら、僕は月2〜3回やれるような感じがしたんです」

 

充実した練習をした事で「北京オリンピックではビックリするようなタイムが出るかもしれない」という期待感も抱くようになった。久世コーチとも「北京では1分53秒台前半を出さなければメダルに届かないかもしれない。だから、1分52秒台を目指す気持ちでトレーニングをしよう」と話し合った。

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