コラム/インタビュー

アスリートメッセージ

馬術 杉谷泰造

誰が勝っても不思議ではないのが障害馬術。
だからメダルもそう遠くはない。

馬術一家に生まれ、
自然と馬術への道を歩み出す。

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007年10月、秋田わか杉国体
写真提供:アフロスポーツ
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柔らかな声でインタビューに応える。

第2次大戦前、1932年ロサンゼルスオリンピックで西竹一選手がウラヌス号で金メダルを獲得した障害馬術。以来76年間、メダル獲得から遠ざかっている馬術界に一筋の光を差し込みつつあるのが、北京で4大会連続出場となる杉谷泰造だ。

20歳で初出場した1996年アトランタオリンピックは、トラブルへの対処がまったくできずに64位と惨敗した。だが、2000年シドニーオリンピックでは、戦後日本人初の決勝進出を果たして25位に。2004年アテネオリンピックでは、戦後日本人最高の15位を記録した。40歳代が最も脂がのるといわれている馬術で、その実力を着実に伸ばしている期待の星だ。

「母方の祖父・川口宏一氏は1956年メルボルンオリンピック(馬術のみストックホルムで開催)で馬術の大障害に出場し、父の杉谷昌保氏も1968年メキシコシティーオリンピックから1976年モントリオールオリンピックまで、障害馬術で3大会連続の代表になっている。

そんな馬術一家に生まれた杉谷は、普通の家であれば犬や猫に接するのと同じような感覚で馬に接して育った。

「気がついたらもう、馬に乗っていましたね。幼稚園の時は毎日、家から幼稚園のバスが迎えにくる場所までの100mくらいを、父の乗る馬に一緒に乗せてもらっていたんです」


2007年10月、秋田わか杉国体 写真提供:フォート・キシモト

自宅は大阪府南部の和泉市。小学校は兵庫県神戸市のインターナショナルスクール「カナディアンアカデミー」まで、約1時間半かけて通った。本人は「夏休みが長いのが魅力だった」というが、両親にしてみれば当然、語学修得の意味もあったのだろう。馬術で海外を転戦するには言語は必要不可欠だ。彼は知らずして、馬術への道を歩みだしていたのだ。

「小学校2年からひとりで乗り始め、初めて試合に出たのが3年の時だったんです。ジュニアの大会だったけど、2位になって泣いてたみたいですね(笑)。祖父も父もすごい人なので、確かにプレッシャーはありました。でもそれより、失敗するのが嫌だったし、勝てなかったのがすごく悔しかったんです」

同年代には馬術をやっている者も多く、ジュニアのレベルは高かった。杉谷の日課は、午後3時半に授業を終えて帰宅すると5時前、それから練習をして食事をし、宿題を終えて寝るという毎日だった。中学生になる頃には大会で成績も出せるようになって真剣になり、「もっと上へいけるのでは」と実感するようになった。

「その頃から、自分の夢としてオリンピックを意識し始めていました。昔は日本人も金メダルを獲ってるのに、何でもっと上へいけないのかな』と思っていました。でももちろん、僕も最初のアトランタではノックアウトされたんですけどね(笑)」

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