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アスリートメッセージ

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体操の女子選手が個人で表彰台に上るのは第13回アジア競技大会(1998年/バンコク)において菅原リサ選手が床で銅メダルを獲得して以来、実に8年ぶりのことだった。

得意種目である床で銅メダルを獲得した大島杏子選手。しかしアジア競技大会の約1カ月前に行われた全日本体操競技選手権大会では個人総合10位と不本意な成績に終わっていた。
「全日本では調子が良すぎて、逆に空回りして失敗してしまったんです。いい試合ができると思っていただけにショックで、しばらくは落ち込みました」

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第15回アジア競技大会(2006/ドーハ)
大島選手、平均台の演技。
(写真提供:アフロスポーツ)

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第15回アジア競技大会(2006/ドーハ)
上村選手、段違い平行棒の演技。
(写真提供:アフロスポーツ)

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所属先の朝日生命体操クラブでインタビューに応じる
大島選手(左)と上村選手。

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上村選手、2006年世界選手権での平均台の演技。
(写真提供:アフロスポーツ)

だが大島選手を指導してきた塚原千恵子コーチからかけられた言葉で平常心を取り戻した。
「『頑張ろうと思うから空回りする。いつも通りにやればいいんだ』と言われました。アジア競技大会中はいつも通りにやろうと自分に言い聞かせました。そうしたらいつも以上に実力が発揮できたんです」

一方平均台で銅メダルに輝いた上村美揮選手は、全日本体操競技選手権大会個人総合で優勝。2006年世界体操競技選手権大会の代表にも選ばれ、アジア競技大会でも個人総合、段違い平行棒、跳馬で4位に入るなど目覚しい活躍を見せている。
「自分の演技をするのに精一杯で、メダルは意識していませんでした。緊張で足もガクガク震えていましたから」と当時を振り返った。

上村選手、大島選手とも現在朝日生命体操クラブに所属している。
上村選手が体操を始めたのは7歳のときだった。
「いつも昼休みに逆上がりをしていて、それを見ていた校長先生から体操を勧められました。教室に行ってみるとトランポリンがあって楽しそうだったんです。それを見てやってみたいと思いました」

上村選手より1歳年下の大島選手も6歳と、上村選手とほぼ時を同じくして体操を始めている。
「実はサーカスに入りたかったんです。空中ブランコを見て、楽しそうだなあと思ったんですが、母から『サーカスは寮に入らないとダメなのよ。でも体操をやればできるようになるんじゃない?』と言われて、始めました」

両選手とも別々のクラブを経た後、朝日生命体操クラブの門を叩く。同クラブは1968年メキシコオリンピック、1972年ミュンヘンオリンピック、1976年モントリオールオリンピックで5つの金メダルを持つ塚原光男さんが指導している名門だ。
上村選手、大島選手が同クラブに移った当初、1992年バルセロナオリンピック代表の小菅麻里選手や、1996年アトランタオリンピック代表の三浦華子選手など、第一線で活躍する選手たちが同じフロアで練習していた。その姿を目の当たりにし、彼女たちの意識も徐々に変わっていく。

「朝日生命体操クラブに来て、オリンピックに出たいと思いました」
と大島選手。上村選手もまた同じ思いを抱いていた。
「それまで世界選手権やオリンピックなんて考えたこともなかったんです。けれど自分たちと同じクラブにオリンピック選手がいて、自分も出たい!という気持ちになりました」という大島選手は、見事高校3年生の時、2004年アテネオリンピック代表に選ばれた。しかし同大会の女子代表は2枠しかなく、上村選手は出場を逃してしまった。

「少しだけ悔しかったです。けれど2枠しかなかったので、自分は代表入りできるとは思っていませんでした。むしろ2005年の世界選手権代表に入れなかったほうが辛かったです。代表に入りたいという気持ちが強すぎたんでしょうね。でも私は基本的に焦ることってあまりないんです」とマイペースを自認する上村選手。


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