コラム/インタビュー

アスリートメッセージ

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2004年の8月に開催されたアテネ大会のセーリング・男子470級で見事銅メダルを獲得した関一人選手と轟賢二郎選手組は、2004年の470級世界選手権において12レース中10位以内の成績を多く残し、さらに世界ランキングでも15位に入るなど、万端の調整の中でオリンピックに臨んだ。

セーリングは1936年のベルリン大会からオリンピックへの参加実績があるが、残念ながら男子が獲得したメダルは無かった。ベルリン大会から実に68年目にして、関選手と轟選手の手により念願のメダルを獲得したのである。セーリングチームは「アテネの海に日の丸を」という合い言葉にまとまり、そして戦った。

関選手はアテネ大会を振り返り「メダルを獲得できたことは、何よりも嬉しかったのですが、それに加えて自分にとってオリンピック出場は初めてのことだったので、出場できたことの喜びと楽しさが大きかったですね」

世界のトップ選手たちがオリンピックという4年に一度の最高の舞台に集まり、最高のパフォーマンスを発揮する中で、関選手自らが戦えたということが何よりも楽しかったのだそうだ。

セーリングも他競技同様、オリンピックで上位に名前を連ねる選手たちの実力は僅差。実力が伯仲する中でのレースは、競技者にとってはプレッシャーでもあり同時に面白くもある。

轟選手は「高校からセーリングをはじめて、大学時代にはオリンピックを意識し、やるからには一番になりたいと思っていました。そしてアテネ大会でメダルを獲得できて嬉しかったですね。僕もオリンピック出場は初めてだったので、運が良かったのかもしれません」

アテネ大会で関選手、轟選手ともにメダルを意識しはじめたのは、最終レース(8月21日・第11レース)でのこと。しかしながら初日(8月14日)に行われた2レースでは、3位、7位と好スタートをきり、最終レース前には参加27カ国中、4位につけていた。最終レースの走り方ひとつでメダルが2人には見えていた。

両選手の気持ちは「何としても、ひとつ順位を上げてメダルを狙いたかった」そして2人が得意とする軽風も味方し、3位争いを繰り広げたスウェーデンを引き離し、ついに銅メダルを獲得。

関選手は、小学校2年生の頃に千葉県の千葉ヨットビルダーズクラブというヨットクラブにお父様が入り、そのクラブで初めて乗ったヨットがOP(オプティミスト)級。その後、土浦日本大学高等学校ではインターハイ艇種でもあるFJ(フライング・ジュニア)級に乗りはじめ、日本大学進学後に470級に乗りはじめた。

一方、轟選手は、幼稚園、小学生の頃に、お父様の仕事の関係でアメリカに滞在。その頃にセーリングと出会った。帰国後、茨城県の霞ヶ浦高校に入学し、部活の中で本格的にセーリングを始めた。オリンピック種目である470級に乗りはじめたのは京都産業大学入学後、体育会のヨット部に入ってからのことになる。

関選手は、現在の所属企業である関東自動車工業株式会社には1998年に入社。轟選手は大学卒業後、一時は関西の企業に入社するが「その会社は競技者としてオリンピックを目指す環境ではなかったので、すぐに辞めました。その後、一年ほどアルバイトをしながらセーリングを続けていていたのですが、2001年に関東自動車工業株式会社に入社しました」

企業のサポートの中で選手が育成されていくことは理想でもある。その意味において関東自動車工業株式会社は、セーリングに理解を示し選手をサポートする企業として知られている。

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