MENU ─ オリンピックを知る

アスリートメッセージ

アスリートメッセージ

バドミントンは、ほとんどの人が一度はコートに立ち、試合をしたことがあるスポーツではないでしょうか。そんな親しみのあるバドミントンが正式にオリンピック競技となったのは意外なほど最近で、1992年に開催された第25回オリンピック競技大会(1992/バルセロナ)のことでした。
オリンピックに出場するバドミントン選手は、世界ランキングの成績で決定されます。アテネオリンピックに出場が決まったバドミントンの日本代表選手11名も、この世界ランキングをもとに決定されました。

男子シングルスには世界ランキング24位の佐藤翔治選手(MMGアローズ所属)と、同26位の山田英孝選手(日本ユニシス所属)。
女子シングルスは世界ランキング11位の米倉加奈子選手(ヨネックス所属)、同13位の森かおり選手(三洋電機所属)、同16位の田中美保選手(三洋電機所属)の3名。
男子ダブルスは世界ランキング17位の舛田圭太選手(トナミ運輸所属)/大束忠司選手(トナミ運輸所属)の1組。
女子ダブルスは世界ランキング8位の中山智香子選手(三洋電機所属)/吉冨桂子選手(九州日本電気所属)と同10位の山田青子選手(三洋電機所属)/山本静香選手(ヨネックス所属)の2組。
混合ダブルスは世界ランキング14位の山本静香選手/大束忠司選手。
以上の選手がアテネのコートで戦います。

2000年のシドニー大会に続き2大会連続出場となる米倉加奈子、舛田圭太、山田英孝の3選手にお話をうかがいました。

米倉加奈子選手が生まれて初めてコートに立ったのは小学校3年生の時だったそうです。「中学校3年生で全国大会に出たことが、バドミントンの選手として自覚するきっかけになったと思います。でもスポーツ選手になることよりも、英語を使った仕事がしたいとずっと思っていました。1998年のアジア大会に優勝してメダルを取ってから、オリンピックにも行ってみたいな、と思うようになりました」

舛田圭太選手は小学校4年生の時に石川県の金沢ジュニアバドミントンクラブに入り、小学校・中学校の間はクラブを中心に活動。高校はバドミントンの名門、金沢市立工業高校。そして日本体育大学へ進学、大学卒業後は実業団で常に上位にあるトナミ運輸に所属しています。一途なスポーツマンといった感じですが「僕はバドミントン以外は運動が苦手」と、意外な反応。「身体能力の検査などの結果はいつも良くないのですが、なぜかバドミントンだけはできる。でも、すべてが中途半端であるよりは、ずっといいことだと思いませんか?」
舛田選手は1995年のインターハイ優勝以来、2003年までの主な試合ですべて優勝。圧巻は1998年の全日本総合でシングルス、ダブルスともに16歳9カ月で2位、19歳9カ月で優勝し、史上最年少記録を樹立しています。

山田英孝選手は埼玉県東浦和中学校2年生の時に学校の部活動でバドミントンを始めました。中学3年の時に出場した全国大会の活躍がバドミントンの強豪、埼玉県立上尾高校の目に留まり勧誘を受けました。しかし「父はバドミントンを続けることに反対でした。私の人生を考えてくれてのことでしたから、父に逆らってまで続けるのはどうなのかと悩んでいた時に、兄が『勉強で日本一や世界一にはなれないだろう?精一杯やってみたらいい』と父を説得してくれたのです」お兄さんの言葉が山田選手の今を作ったといえます。

3人の選手は異口同音に「バドミントンは総合的な運動能力が必要」と言います。ただ力が強いだけではなく、勝つための判断力、体力を試合の最後まで維持させる持久力、瞬発力など様々な「力」が必要とされるスポーツがバドミントンなのです。「男子の試合はスピードと迫力があって見ごたえ十分」と米倉選手。トップクラスの男子選手が打つシャトルの時速は350kmにもなるそうです。


アスリートメッセージ一覧へ

米倉選手、舛田選手、山田選手のプロフィールはこちら