第29回オリンピック競技大会(2008/北京)

野球のみどころ

日本代表選手団

今大会のみどころ

(1)今大会の目標、チームの特徴

2007年1月の日本代表監督の就任会見の席で、星野仙一監督は「『金メダルしかいらない』ということでいいんじゃないでしょうか」と堂々と言い切ったように、野球が公開競技として採用された1984年のロサンゼルス大会以来、正式競技となって初となる金メダルを目指す。

昨年12月のアジア予選を勝ち抜いた時と同じように、投手を中心とした守りのチーム。投手陣はエースのダルビッシュ有らの若手に藤川球児、川上憲伸、岩瀬仁紀ら中堅、ベテランと多彩な顔ぶれがそろった。打線は1番から9番まで切れ目のなく、つながりを重視し、どこからでも得点が可能な布陣となる。

(2)日本チームの特徴、有力選手

主将の宮本慎也は、抜群のリーダーシップでベテラン、若手を一つにまとめると同時に、監督、コーチとのパイプ役も務める。

エースのダルビッシュは長身から投げ下ろす速球、スライダーを武器とする。その他の先発陣はアジア予選で大役を務めた成瀬善久、涌井秀章、下手投げの渡辺俊、左腕の和田毅、杉内俊哉、岩隈久志、田中将大らが候補として予想される。抑えは上原浩治、岩瀬仁紀、藤川球児の3人が予定され、終盤の3−4イニングスを託す。

予想される打線は上位を俊足巧打の西岡剛、川ア宗則、青木宣親ら連ね、中軸の新井貴浩、稲葉篤紀らは勝負強い。下位打線もしぶとい打者がそろうなど、つなぎの打線でどこからでも得点が可能となる布陣となるだろう。

(3)他国の有力選手

注目すべきは、キューバ代表のペスタノ捕手とグリエル内野手だ。ペスタノ捕手は強肩と優れた洞察力で攻撃的な守備をする選手として注目されている。

また、グリエル選手はシドニーオリンピックまで背番号10をつけていた、キューバの偉大なる先輩、オマール・リナーレス選手の後継者として、また、父グリエルに次いで、親子2代に渡って代表チームのクリーンアップを打つサラブレッドとしても注目を集めている。
(6月30日現在)

その他特筆すべき事項

話題性のある選手

アメリカ代表チームを率いるデーブ・ジョンソン監督は、かつて日本のプロ野球選手として読売ジャイアンツに在籍し、日本人に親しまれた。また、オリンピック開催国の中国代表チームのジム・ラフィーバ監督もかつて日本のプロ野球選手として、千葉ロッテマリーンズの前身のロッテオリオンズに在籍し、金田正一監督の下でプレーしていた経験がある。更に、キューバ代表チームのパチェーコ監督は、社会人野球のシダックスで選手として活躍し、プロ野球楽天ゴールデンイーグルスの野村監督の下でプレーした経験がある。日本野球の経験者が数多く参加する北京オリンピックは、プロ選手によるハイレベルな戦いが予想される。

(2)過去の大会でのエピソード

2007年アジア選手権最終結果

チームJPNKORTPEPHI
日本(JPN) ○ (4-3)○ (10-2)○ (10-0)
韓国(KOR)● (3-4)  ○ (5-2)○ (13-1)
チャイニーズ・タイペイ(TPE)●(2-10)● (2-5) ○ (9-0)
フィリピン(PHI)●(0-10)●(1-13)● (0-9) 

過去のオリンピック競技大会における結果

 
1984 ロサンゼルス日本アメリカチャイニーズ・タイペイ
1988 ソウルアメリカ日本プエルトリコ
1992 バルセロナキューバチャイニーズ・タイペイ日本
1996 アトランタキューバ日本アメリカ
2000 シドニーアメリカキューバ韓国
2004 アテネキューバオーストラリア日本

※2000年の日本は4位

1. オリンピック競技大会における野球の歴史

「野球をオリンピック競技に」−と訴え続けた世界の野球人の願いが実現したのは、1986年10月13日であった。その日、スイス・ローザンヌで開かれた国際オリンピック委員会(IOC)総会で野球を92年バルセロナ大会から正式競技とすることが決定した。1896年、近代オリンピックが誕生。その8年後の第3回セントルイス大会で野球はデモンストレーションゲームとして実施された。以来、目前と思われたオリンピック入りが実現するまでに90年近い歳月を要した。

公開競技として野球は多くのスポーツファンにその魅力をアピールしてきた。1912年のストックホルム大会、36年ベルリン大会、64年東京大会と・・・。特に、ベルリン大会では、日本は不参加で米国チームを2つに分けた試合であったが、12万5000人の大観衆が埋めた。これは、史上最も観衆を集めた試合として野球史に刻まれた。

1934年国際アマチュア野球連盟(IABF、FIBA、IBAを経て現IBAF)が誕生。世界大会を開き、野球の普及発展をはかりオリンピックへの道を模索した。しかし、73年、FIBAは分裂。76年AINBAとして統一され、ようやく78年にIOCからIF(国際競技連盟)の承認を得た。これでオリンピック化に拍車がかかる。79年、ロス大会で野球を実現させるべく、IBA首脳とMLBのキューンコミッショナー、ドジャースのピーター・オマリー会長らが集い、行動計画が練られた。だが、80年西独(当時)バーデンバーデンで開かれたIOC総会で「世界的に見て野球の普及度が低い」として採用が見送られた。

だが、84年ロス大会でIOC幹部は野球人気の素晴らしさを目の当たりにする。公開競技ながら野球は8日間で40万人、サッカー、陸上に次ぐ観衆を集めた。野球の素晴らしさ、集客力を知ったIOCは2年後、ローザンヌで野球人の長年の願望に答えることになる。

この間、オリンピック野球の実現に向け多くの野球人が尽力した。FIBA事務局長のカルロス・ガルシア氏はIOC幹部に手紙を書き続け、世界大会を自国ニカラグアで開催し、国際野球の発展に取り組んだ。IBA前会長のロバート・スミス氏(米国)、ドジャースのピーター・オマリー会長、キューバのIOC委員マニュエル・グェラ氏、日本野球連盟の山本英一郎会長代行、そして東海大学総長の故・松前重義氏らの努力が実ってのオリンピック参加実現であった。

2. オリンピック競技大会における日本の活躍

・1984年ロサンゼルス大会
前年の83年、同大会への出場権をかけた第12回アジア選手権が韓国ソウルで開催された。日本は韓国、チャイニーズ・タイペイと共に5勝2敗で同率優勝となった。82年に世界選手権を開催、優勝を飾った韓国はオリンピック出場を決めており、残るアジア1枠を目指し、日本はチャイニーズ・タイペイと代表決定戦を戦った。しかし、郭泰源(元西武)に2安打完封され0−1で敗れ、この時点でオリンピック出場を絶たれた。
ところが、代表に決まっていたキューバがロス大会をボイコットしたことから、日本に出場要請が届いた。急遽編成した全日本ではあったが、韓国、チャイニーズ・タイペイ、決勝ではマグワイヤー(元カージナルス)が主軸を打つ米国を破って優勝、ドジャースタジアムに高々と金メダルと日の丸を掲げた。

・1988年ソウル大会
日本の他韓国、チャイニーズ・タイペイ、米国、カナダ、オランダ、プエルトリコ、豪州の8チームが参加。野茂(ドジャース)、塩崎、石井、渡辺智(元西武)らの投手陣、捕手に古田(元ヤクルト)、内野に野村(元広島)、小川(元オリックス)らを擁する日本は予選を全勝で通過、準決勝で韓国を倒し、米国との決勝に臨んだ。
日本投手陣は主砲マルティネス(元ヤンキース)に2本打たれるなど5失点。隻腕ジム・アボット投手(元ホワイトソックス)を攻める打線も同投手の気迫の投球に連打を阻まれ3点止まり、連覇はならず銀メダルに終わった。

・1992年バルセロナ大会
待望の正式競技となった。前年のオリンピック予選(北京)で日本は大苦戦。決勝リーグの初戦で豪州に7−9と苦杯。韓国戦を競り合いでものにして、チャイニーズ・タイペイを延長10回の末に振り切って代表権をつかんだ。
過去2大会に欠場したアマチュア野球王座のキューバが参加。8チームによる総当り予選リーグで4強に残ったのは7戦全勝のキューバ、ともに5勝2敗の日本、チャイニーズ・タイペイ、米国。準決勝でチャイニーズ・タイペイと対戦した日本は郭李(元阪神)を打てず2−5で敗退、決勝進出を逃した。3位決定戦で奮起してガルシアパーラ(現ドジャース)、ジオンビー(現ヤンキース)らが引っ張る米国を圧倒、銅メダルを手にした。

・1996年アトランタ大会
オールアマ選手で挑む最後の大会となった。日本は予選リーグ前半1勝3敗と崖っ縁に立ったが、この状況を救ったのがミスター社会人の投手杉浦(現日本生命監督)だった。このニカラグア戦の勝利でチームに勢いがつき予選は3位通過。準決勝では予選でコールド負けを喫した米国戦となった。グライシンガー(現巨人)やグラウス(現カージナルス)が中心選手だった米国ではあったが、ここでも杉浦が好投し予選の屈辱を晴らし決勝に駒を進める。決勝のキューバ戦は2戦連続で杉浦が先発。日本は序盤で6点差と離されながら西郷(現三菱ふそう)、谷(現巨人)、松中(現ソフトバンク)らが勝負を諦めず一時同点とした。後半日本投手陣がキューバ打線を抑えきれず結果12対7で敗れたが、全観客より日本の健闘が称えられ、敗者ではあったがキューバと共に球場一周のウイニングランを行った。
この大会後、スイスで行われたIBAF総会にてオリンピックを含めた国際大会へのプロ選手の出場が可決され、世界各国とも代表選手のプロ化が進み始めた。

・2000年シドニー大会
日本野球史上初のプロアマ混合代表チームを派遣。1999年韓国ソウルで開催されたアジア地区予選では古田(元ヤクルト)、野村(元広島)、松中(現ソフトバンク)をはじめ8名のプロ選手が日本代表入りし、2位でオリンピック出場権を獲得した。
シドニー大会本番では、直前までプロ選手の派遣準備が整わず、チーム全員が初めて顔を会わせたのはシドニーに入ってからであった。予選はAAAプロ選抜で編成された米国、ドリームチームの韓国、オリンピック2連覇中のキューバに破れ4位で通過。準決勝のキューバ戦は黒木(元ロッテ)が打ち込まれ敗戦、3位決定戦では松坂(現レッドソックス)を先発に送り必勝体制で臨んだが、イ・スンヨプ(現巨人)が四番に座る強力打線につかまりオリンピック史上初めてメダルを獲得できなかった。中村紀(現中日)の涙が日本国民全員の悔しさを表した大会だった。
ただ、この大会ではミスター社会人の杉浦がソウル大会以来3大会連続で出場し、野球選手として初めて日本選手団の主将という重責を努めた。

・2004年アテネ大会
ドリームチーム「長嶋JAPAN」の誕生、アメリカ合衆国地区予選敗退オリンピック不出場。2003年札幌で開催されたアジア地区予選、長嶋監督(現巨人終身名誉監督)率いる日本代表は松坂(現レッドソックス)、城島(現マリナーズ)、福留(現カブス)、小笠原(現巨人)らで史上初のドリームチームを編成した。韓国もイ スンヨプ(現巨人)、チャイニーズ・タイペイも王建民(現ヤンキース)らを派遣、同様にドリームチームで挑んできたが、日本は予選1位で出場権を獲得する。
しかしながら、アジア予選で派遣選手数を制限しなかった各プロチームが本大会ではその制限規程を設定。更に長嶋監督が病に倒れるなど、スタッフ、選手共にベストメンバーでアテネ大会に臨めなかった。
残された選手達は床に伏す長嶋監督の期待に応えるべく奮闘したものの、オーストラリアに2敗したことで金メダルに手が届かなかった。特に準決勝では先発松坂(現レッドソックス)が許したのは1点のみだったが、ウィリアムス(現阪神)が引っ張るオーストラリア投手陣に日本打線が完璧に抑え込まれ完封で敗れた。
3位決定戦でカナダに勝利し、2大会ぶりにメダルを獲得したものの、ドリームチームとしては悔やみきれない結果となった。

3. オリンピック競技除外と復活キャンペーン

2002年メキシコで開催されたIOC総会にて、野球、ソフトボール、近代5種の3競技についてオリンピック競技から除外すべきではないかという議論が起こった。しかし、その時点でこの議論に対して不安視する声はIBAF並びに野球先進各国からも聞こえることはなく、3年後に除外されるまで楽観視するのみだった。

2005年7月8日、シンガポールで開催されたIOC総会には、IBAF役員はだれも姿を見せなかった。IBAFとしてIOC委員に何もアプローチすることなく、結局50対54で除外が決定する。ちなみにソフトボールは50対50のタイ票数だったにもかかわらず、野球と共に除外競技となってしまった。

その後、当時のIBAFアルド・ノタリ会長の責任を追及する声も出始めたが、会長以下執行委員会は1年近くそれらの声に耳を傾けず独自の復活運動を進めていた(何もしていなかった)。

しかし、2006年6月アルド・ノタリ会長の急逝により、事が大きく変わる。長年イタリア、スペイン、キューバ他ラテン諸国で固められていたIBAFだったが、それまでIBAFと一線を画していたアメリカ連盟、MLB、MLBPA(選手会)が積極的な動きを見せるようになる。7月にはアメリカから会長候補を擁立することがわかり、日本としては何もしない旧体制に見切りをつけ、アメリカ支持にまわった。そして、その後の選挙運動でも積極的にアメリカ支持を訴えた。その結果、2007年3月には不在だった会長の席にアメリカ人シラー氏が座ることとなる。

しかしながら、依然旧体制の執行委員達は自分達の責任をとろうとせず、改革派には席を譲ろうとしなかった。シラー会長名で緊急総会が招集され、旧執行委員達の改選が実現し全員交代することになったのは、4ヵ月後の7月だった。

生まれ変わったIBAFとして目指すのは、2009年10月コペンハーゲンで開催されるIOC総会である(開催都市決定は10月2日、28競技決定は10月4日の予定)。

総会に向け、野球競技復活運動を進めていくことになるのだが、重要なのは2009年6月開催予定(場所未定)のIOC理事会であり、7競技(野球、ソフトボール、7人制ラグビー、空手、スカッシュ、ローラースケート、ゴルフ)によるプレゼンテーションを元に理事会が2016年大会28競技の案を作成する。同年10月には、その理事会案を総会で検討し、2016年の競技が決定するという手順となっている。

(3)今大会出場までのエピソード

日本プロ野球(NPB)のシーズン前半に、日本代表候補選手が相次いで怪我に泣かされた。代表選手選考も困難を極め、6月下旬に予定していた選手発表も、7月中旬の選手登録期限ギリギリまで24選手の決定を延ばすことになった。

(4)国際大会での日本チームの成績

・BFAアジア野球連盟アジア選手権 : 24大会中全大会出場優勝16回
・IBAF国際野球連盟ワールドカップ : 37大会中15回出場最高成績準優勝(1982年韓国大会)
・同インターコンチネンタルカップ : 16大会中15回出場最高成績優勝(1973イタリア大会、1997スペイン大会)
・WBCワールドベースボールクラシック : 2006年第1回大会優勝